龍神さまの忘れ傘
その場所は、「龍神の社」へと続く静かな参道でした。
ある雨上がりの晩、ふもとの村に住む一人の娘が、不思議な光に誘われて森の奥へと足を踏み入れました。たどり着いたのは、紫色の花々が咲き乱れ、滝の音が心地よく響く神域。そこで彼女が見つけたのは、道端にそっと置かれた一本の美しい和傘でした。
それは深い紫色に金の細工が施された、人間が持つにはあまりに気高く、輝かしい傘。
傘には小さな札が揺れており、そこには「龍神さまの忘れ傘」と記されていました。
「まあ、龍神さまが傘をお忘れになるなんて……」
娘が驚いて顔を上げると、そこには白銀に輝く巨大な龍が、滝を背にして静かに鎮座していました。龍の鱗は月光を反射して真珠のように煌めき、その瞳は深く、すべてを見透かすような優しさを湛えています。
村では「龍神さまは恵みの雨を降らせる守護神」と伝えられていましたが、目の前の龍神さまは、どこか手持ち無沙汰で、困っているようにも見えたのです。
実は、龍神さまは雨を降らせるのが仕事ですが、本当は雨上がりの虹や、水面に映る花の美しさを眺めるのが何よりの楽しみでした。あの日、あまりに綺麗な虹が出たので、つい嬉しくなって、人の姿で散歩をしていた時に傘を置いてきてしまったのです。
娘は傘を拾い上げ、龍神さまの前に歩み寄りました。
「龍神さま、お忘れ物ですよ。この美しい傘がなければ、次のお勤め(雨降らし)のあとに、ゆっくり虹を眺めることができませんもの」
龍神さまは小さく喉を鳴らし、優しく風を吹かせました。
すると、傘はふわりと宙に浮き、龍神さまのそばへと吸い込まれていきました。
それ以来、この村では雨が上がると、必ずと言っていいほど完璧な七色の虹がかかるようになりました。そして時折、誰もいないはずの参道に、あの紫色の傘がポツンと置かれていることがあるそうです。
それは、「また遊びにおいで」という、龍神さまからの密かなお誘いなのかもしれません。

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