河童のわすれもの
それは、夕闇が紫色の帳を静かに下ろす、ある夏の終わりの出来事でした。
村のはずれに住む小夜(さよ)という娘は、その日、妙に騒がしい小川のせせらぎに誘われて、森の奥へと足を踏み入れました。そこは、普段なら畏れ多くて近寄らない、古い社(やしろ)がひっそりと佇む場所でした。
深い森に隠されたその場所は、まるで別世界のよう。石の橋の向こうに、温かな光を湛えた社がぼんやりと見えています。そして、川のほとり、そして空中の至る所に、この世のものとは思えないほど美しい金色の粒子が、きらきらと、しかし儚げに舞っていました。
小夜は、その光景に見惚れ、思わず川辺にしゃがみこみました。足元には、真っ白な蓮の花が、その純白さを競うように咲き誇っています。
ふと、小夜の目が、川の流れに漂う、あるものに留まりました。
それは、編まれたばかりのような、真新しい竹籠でした。川の水に揺られながら、その中には数枚の、青々とした蓮の葉が、まるで小さな舟のように浮かんでいました。
「おや、こんなところに……。誰かが忘れていったのかしら。」
小夜は、その籠をそっと手に取りました。竹の感触は冷たく、そして不思議と手に馴染みました。蓮の葉の上には、数滴の水が真珠のようにきらめいており、その姿は、まるで誰かが大切にしていたものを、急いで手放したかのような、そんな寂しさを感じさせました。
その時でした。小夜の前に、川の中から、何かがゆっくりと現れました。
それは、この世の者ではないような、けれどどこか親しみを感じさせる、不思議な生き物でした。緑色の肌、甲羅、そして頭には、申し訳程度の、少しボサボサとした、葉っぱのような髪の毛。
それは、村の言い伝えに聞く、河童の姿そのものでした。
河童は、小夜が手に持っている竹籠を、じっと見つめていました。その瞳は、何かを訴えかけるようで、とても悲しげでした。
小夜は、河童と目が合うと、一瞬、足がすくみそうになりました。けれど、河童のその、あまりにも人間味のある、寂しげな表情に、彼女の心の中にあった畏れは、いつしか消え去っていました。
小夜は、河童に微笑みかけ、そして、手に持っていた竹籠を、そっと差し出しました。
「これは、あなたが忘れていったものかしら?」
河童は、小夜の言葉を聞くと、少し驚いたような顔をしました。そして、ゆっくりと、その大きな手を、竹籠へと伸ばしました。
河童の手が竹籠に触れた瞬間、金色の粒子は、さらに一層、眩しく輝きました。その輝きは、まるで、河童の心の中の、寂しさが、喜びへと変わっていくのを祝福しているかのようでした。
河童は、竹籠を大切そうに胸に抱え、そして、小夜に何度も何度も、小さくお辞儀をしました。その姿は、まるで、失くしていた大切な何かを、やっと見つけることができた、そんな安堵感に満ち溢れていました。
やがて、河童は、小夜に最後の会釈をすると、竹籠を手に、ゆっくりと、川の中へと姿を消していきました。
小夜は、河童の姿が消えた川面を、いつまでもじっと見つめていました。金色の粒子は、まだ、夜空にきらきらと舞っていました。けれど、その輝きは、以前よりもずっと、温かく、そして力強いものに感じられました。
小夜は、その夜の出来事を、誰にも話しませんでした。けれど、彼女の心の中には、あの河童の、寂しげだけれど、温かな瞳が、いつまでも、鮮やかに残っていました。
そして、その年、村は、例年になく、豊かな収穫に恵まれました。村人たちは、その理由を、誰一人として知りませんでした。けれど、小夜だけは、知っていました。それは、あの河童からの、静かな、そして、温かい恩返しだったということを。

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