春を探しに来た鬼
その赤鬼の姿は、およそ春という柔らかな言葉には似つかわしくないものでした。
燃えるような赤い肌、空を突く二本の角、そして肩に担いだ物々しい棘付きの金棒。名は「阿吽」。地獄の業火の中で数百年を過ごしてきた彼が、ある日ふと思い立って地上へと這い出してきたのには、一つの理由がありました。
「春というものは、そんなに美しいのか」
地獄の亡者たちが、苦しみの中でも時折口にするその響き。阿吽は、冷たい鉄と熱い血の匂いしか知らない自分の世界に、その「春」とやらを一口持ち帰ってやりたいと思ったのです。
第一章:雪解けの足音
阿吽が地上に辿り着いた時、そこはまだ深い雪に閉ざされていました。
大きな足で雪を踏みしめるたび、自らの体から発せられる微かな熱で雪が溶け、地面が顔を出します。
「これのどこが美しいというのだ。地獄の針の山の方が、まだ色彩があるではないか」
彼は鼻を鳴らし、金棒を杖代わりに歩き続けました。しかし、ふとした瞬間に足元を見て、彼は足を止めました。雪の間から、ほんの少しだけ顔を出した小さな福寿草。
そのあまりの小ささと、凍えるような寒さの中で懸命に黄色を灯す姿に、阿吽は思わず身をかがめました。指先で触れれば、たちまち潰れてしまいそうな脆い命。彼は初めて、己の拳が「壊すこと」以外に使い道がないことを少しだけ寂しく思いました。
第二章:桜の雨
さらに歩を進め、里へと降りてくると、世界は一変していました。
視界を埋め尽くしたのは、地獄の炎とは正反対の、淡く、溶けるような薄桃色。
「これが……桜か」
見上げる空からは、雪ではない何かが舞い落ちてきます。それは阿吽の硬い角に触れ、無骨な肩に止まりました。風が吹くたび、何万という花びらが踊り、彼を包み込みます。
彼はそこで、一人の人間の子供に出会いました。子供は阿吽の恐ろしい姿を見ても逃げ出しませんでした。ただ、阿吽の背後にある桜並木を指差して笑ったのです。
「おじちゃんも、春を探しに来たの?」
阿吽は答えに窮しました。本来なら咆哮一つで震え上がらせるはずの相手に、彼はそっと金棒を地面に置き、手のひらに舞い落ちた一片の花びらを見つめました。
結末:心に咲いた春
阿吽は結局、春を地獄へ持ち帰ることはできませんでした。
花は手折ればすぐに枯れ、この柔らかな風も、地獄の熱風にかき消されてしまうでしょう。
しかし、彼は満足していました。
地獄へ戻る道すがら、彼の胸のうちは以前よりもずっと静かでした。
「春とは、景色ではない。凍えていた心が、何かに触れて解ける瞬間のことなのだな」
再び地獄の門をくぐる時、彼の肩にはまだ一枚、主を忘れた桜の花びらが残っていました。それを見た獄卒たちが驚いて尋ねました。
「阿吽様、地上に何があったのですか?」
阿吽はただ不敵に笑い、こう答えました。
「少し、温かい風に当たりすぎただけだ」
その日から、彼の物語を聞いた地獄の亡者たちは、目を閉じてそれぞれの「春」を思い描くようになったといいます。

