最後の10円玉
夕焼けが、セピア色の街をいっそう濃く染め上げていく時間。
小学4年生のタカシは、「山田商店」の前に立ち尽くしていた。
カバンの中はからっぽ。手元に残ったのは、さっきまで握りしめていた一枚の10円玉だけだ。
「これで、最後か……」
タカシは、自分の影が長く伸びる地面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
店先に並ぶ看板には、「アイスキャンデー 10円」「ラムネ 10円」「くじびき 10円」の文字。そして黒板には、見覚えのある優しい筆跡で『今日のおこづかい 10円』と書かれている。
この10円は、毎日欠かさずお店の手伝いをして、おばあちゃんからもらっていた、タカシにとっての特別な10円だった。
けれど、この「山田商店」は、今日を限りに店を畳むことになっていた。
店主であるおばあちゃんが体調を崩し、田舎の親戚の家へ引っ越してしまうからだ。学校帰りにここへ立ち寄り、10円玉を握りしめて「今日は何にしよう」と悩む時間は、タカシにとって何にも代えがたい宝物だった。
遠くの路地では、そんな事情を知らない下級生たちが、無邪気に大縄跳びで遊んでいる。その楽しげな声が、余計にタカシの胸を締め付けた。
「タカシちゃん、いらっしゃい」
店の奥から、小さくなったおばあちゃんがゆっくりと姿を現した。いつもの優しい、だけどどこか寂しそうな笑顔だった。
「最後のおこづかい、ちゃんと使ってくれたんだね。何にする? アイスかい? それともラムネ?」
タカシは10円玉をじっと見つめた。
大好きなアイスキャンデーを食べれば、口の中は冷たくて甘くなるけれど、食べ終われば消えてしまう。ラムネを飲んでも、残るのはガラス瓶だけだ。
この街からおばあちゃんがいなくなってしまう。その事実が、どうしても信じられなかった。
タカシは意を決して、開いたカバンを差し出しながら言った。
「おばあちゃん。僕、何もいらない。この10円玉、おばあちゃんにあげる」
「おや、どうしてだい?」
「これ、おばあちゃんが僕にくれた『最後のおこづかい』だから。僕が使っちゃうより、おばあちゃんに持っててほしいんだ。僕が大きくなって、もっとたくさんお手伝いができるようになるまで、おばあちゃんに預かっておいてほしいの」
タカシの目から、こらえきれずに涙がポロポロとこぼれ落ちた。
おばあちゃんは驚いたように目を見張ったあと、深く、深く目を細めた。そして、タカシの小さな手から、そっと10円玉を受け取った。
「ありがとう、タカシちゃん。おばあちゃん、この10円玉は絶対に 誰の手にも渡さないよ。お守りにして、ずっとずっと大切に持っているからね」
おばあちゃんはそう言うと、店先の一番大きなガラス瓶から、色とりどりのビー玉をひとつ、タカシの手に握らせてくれた。夕日に透かすと、まるで街の夕焼けをそのまま閉じ込めたように赤く輝くビー玉だった。
「これは、おばあちゃんからの『お返し』だよ」
翌日、山田商店のシャッターは下ろされ、主を失った自転車だけがぽつんと残されていた。
けれど、タカシの心は不思議と温かかった。
ポケットの中で、夕焼け色のビー玉がチリンと音を立てる。
遠く離れた街で、おばあちゃんもきっと、あの最後の10円玉を眺めながら自分のことを思い出してくれている。
一枚の10円玉がつないだ約束を胸に、タカシは夕暮れの坂道を、前を向いて歩き始めた。
(了)

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