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「AI臭を消す」って本当に必要?——「ぬい日和」へのAI使用批判から考えたこと

Xで、AIが作った商品POPから「AI臭」を消していく投稿を見ました。

題材は、ピーマン1袋98円のPOPです。

最初はAIにそのまま作らせます。

そこからフォントを変え、余計な装飾を削り、ピーマンの表現も差し替えていく。

何度も指示を重ねながら、店頭にありそうなPOPへ近づけていました。

遊びとして試している投稿で、ビフォーアフターを見るのも面白かったです。

ただ、それを見ながら少し疑問に思いました。

そもそも、AI臭を消すとは、何を消しているのだろうか。

そもそも「AI臭」とは何なのか

AI臭と聞いて、最初に浮かぶのは表面的なクセです。

文章なら、

〜と言えるでしょう

〜も重要です

といった定型的な言い回し。

個人的には、

地味に強い

静かに広がっている

といった表現も、AIはよく使う気がします。

「地味に」と「静かに」で、それっぽい余韻を足そうとしがちです。

やたらと絵文字や記号で飾ったりする文章も、AIっぽく見えます。

画像なら、整いすぎた顔。

独特のマットな質感。

なぜかボケている背景。

少し前までは、指が6本ある、文字が崩れているといった分かりやすい特徴もありました。

ただ、技術が進めば、こうした見た目のAI臭は薄れていきます。

文章も画像も、見ただけではAIかどうか分からなくなるはずです。

それでも、

「これはAIで作られた」

と分かった瞬間、急に評価が下がることがあります。

だとすれば、AI臭は見た目の問題だけではないのかもしれません。

「ぬい日和」への批判が理解できなかった

最近、「ぬい日和」というアプリが話題になりました。

ぬいぐるみ好きが写真を投稿し、交流できるSNSアプリです。

アプリアイコンやストア画像の一部に生成AIを使っていたことが分かり、批判する声が出ました。

「生成AIを使っていてゲンナリした」

「使うのをやめる」

そんな反応もありました。

自分は、最初この批判がよく分かりませんでした。

このアプリは、個人開発者が形にしたものです。

企画を考える。

アプリを作る。

公開する。

不具合に対応する。

利用者の声を聞きながら運営する。

画像を一部AIで作ったからといって、アプリ全体が悪いものになったわけではありません。

むしろ、かなりの労力がかかっているはずです。

それなのに、画像にAIを使ったという一点から、

「愛情がない」

「誠実ではない」

と受け取られてしまう。

AI画像の何が、そこまで悪いのだろう。

自分には、その感覚がなかなか理解できませんでした。

人は労力も含めて価値を見る

この違和感について調べていると、エフォート・ヒューリスティックという心理学の考え方に行き当たりました。

簡単に言うと、人は作品にかかった労力を、価値を判断する手がかりにすることがあるという話です。

何時間もかけて描かれた絵。

職人が手作業で作った器。

手間暇をかけた料理。

完成品そのものだけでなく、

「どれだけ手をかけたのか」

という背景まで含めて、価値を感じることがあります。

生成AIは、この「かけた労力=価値」という感覚を、大きくズラしているのかもしれません。

数秒で画像が出てくる。

短い指示で文章が完成する。

「AIが作った」と分かった瞬間、そこにかかった労力まで小さく見えてしまいます。

実際には、その前後で何度も試行錯誤しているかもしれません。

企画や設計には、長い時間をかけているかもしれません。

AIが労力を減らしているのは事実です。

ただ、それによって、まだ人間がかけている労力まで、受け手からは見えにくくなっているのかもしれません。

批判には同意しない。でも少し理解できた

この視点で考えると、ぬい日和への批判も少し理解できるようになりました。

もちろん、自分は今でも、AI画像を使っただけでアプリ全体を否定するのは違うと思っています。

アプリの企画や開発、運営には、人間の労力がかかっています。

中身もしっかり作られています。

ただ、利用者が最初に見るのはアプリの中身ではありません。

アイコンやストア画像です。

いわば、アプリのパッケージです。

そのパッケージに生成AIが使われていると分かったことで、一部の人には、

「見える部分を簡単に済ませたのなら、中身も同じなのではないか」

と映ったのかもしれません。

もちろん、実際にそうだとは限りません。

ぬい日和のパッケージが悪かった、と言い切りたいわけでもありません。

自分には、特に悪いものには見えませんでした。

ただ、AI画像を労力をかけていない証拠のように受け取る人もいます。

中身には労力も愛情もある。

でも、その労力がパッケージから伝わらなかった人がいた。

そう考えると、批判に同意はできなくても、どんな心理から生まれたのかは少し分かります。

発言に納得したわけではありません。

発生した仕組みが、少し見えるようになりました。

もう一度、ピーマンのPOPを見てみる

ここで、最初のピーマンPOPに戻ります。

自分は最初、AI臭を消すとは、AI特有のクセをなくすことだと思っていました。

AIが作ったと分かる部分を、人間らしく直していく。

ただ、それだけの作業だと思っていたのです。

でも、あらためて見ると、今回やっていたことは少し違います。

AIが最初に作ったPOPは、装飾も多く、妙にきれいに作り込まれていました。

ただ、スーパーの店頭で使うピーマン1袋98円のPOPに、そこまで時間をかけるでしょうか。

おそらく、店員が限られた時間の中で作ります。

値段が見える。

商品が分かる。

それで十分です。

だから、装飾を減らす。

表現を簡単にする。

少し手作り感のある見た目に寄せる。

完成度だけで見れば、むしろ最初の案より劣化している部分もあります。

ただ、その劣化によって、

店員が売り場で作ったPOPらしさ

は増していました。

つまり、今回のAI脱臭は、AIのクセを消したというより、

「このPOPに、人間はそこまで手間をかけないだろう」

という感覚に合わせて、作り込みすぎた部分を削る作業だったのかもしれません。

人間らしく見せるために、あえて完成度を下げる。

そう考えると、AI臭を消すという行為は、単にきれいに整えることではありません。

AIが作った不自然な完成度を、その場で人間がかけるであろう労力の水準へ戻す作業なのだと思います。

労力は、かけるだけでは伝わらない

マーケティングでは、中身だけでなくパッケージも大切だと言われます。

商品名。

デザイン。

コピー。

売り場での見せ方。

それらを通して、

「これは信頼できる」

「自分に向けられた商品だ」

と伝えます。

人間の労力や判断も同じなのかもしれません。

どれだけ労力をかけていても、それが完成品から見えなければ、受け手には伝わりません。

人間がどこを考え、何を選び、どこに手を入れたのか。

そこが見えて、初めて労力も価値として受け取られます。

AIを使えば、作業は速くなります。

ただし同時に、

人間がどこまで考えたのか

も見えにくくなります。

だからAIを使った後には、人間が担当した部分を、もう一度表に出す必要があるのかもしれません。

労力があるように見せることもできる

ただ、ここで少しややこしいことがあります。

人は、見えている労力を価値として受け取りやすい。

ということは逆に、実際にはそこまで労力をかけていなくても、

「手間をかけて作ったように見せる」

こともできてしまいます。

手書き風のフォント。

少し不揃いなデザイン。

あえて残した粗さ。

そうした表現を使えば、AIで短時間に作ったものでも、人間が時間をかけて作ったように見せられます。

逆に、AIを使っていないからといって、それだけで良いものになるわけでもありません。

手作りに見えても、伝える内容が考えられていないことはあります。

時間をかけて作っていても、見にくいデザインになることはあります。

AIを使ったかどうか。

どれだけ時間をかけたか。

それだけでは、良いものかどうかは決まりません。

見える労力は、価値を判断する手がかりにはなります。

ただ、それが品質そのものとは限らないのです。

AIを使う量ではなく、どこを握るか

江崎貴裕さんの著書『生成AIが変える世界を紐解く INFRA MECHANISM』では、本を作る過程でも生成AIが徹底的に使われています。

AIに任せたのは、リサーチや情報整理、作業を効率化するツールの作成です。

一方で著者は、

コンセプトを考える。

集めた情報から使うものを選ぶ。

仮説が正しいかを検証する。

そうした創造的な監督業務に集中しています。

かなりの部分でAIを使っています。

それでも、この本から著者の存在が消えているとは感じません。

何を調べるか。

どの事例を選ぶか。

そこから何を読み取るか。

最後にどんな主張としてまとめるか。

重要な判断は、著者が握っているからです。

この例を見ていると、大事なのはAIをどれだけ使ったかではないと分かります。

どこをAIに渡し、どこを自分で握っているかです。

AIを使わず、すべて手作業で作ったからといって、良いものになるとは限りません。

反対に、作業の大部分でAIを使っていても、人間が重要な判断を握っていれば、その人にしか作れないものになります。

だから、

「AIを使っているから手抜き」

とも言い切れません。

「人間が時間をかけたから良い」

とも言い切れません。

見るべきなのは、使ったAIの量ではなく、誰が何を考え、どこを決めたのかです。

誤字脱字はAIに、違和感は自分に

最近、自分もnoteを書く中で、このことをよく考えます。

AIに文章を書かせると、きれいで読みやすくなります。

ただ、全部を任せると、自分が書いた感覚が薄くなります。

逆に自分で書くと、言い回しにクセが出ます。

少しくどい。

途中で考えが揺れる。

結論まで遠回りする。

以前なら、こうした部分は単なる文章力不足だと思っていました。

でも今は、自分の視点が残っている証拠でもあると思っています。

もちろん、読みにくい文章をそのまま出せばいいわけではありません。

誤字脱字や、意味のない重複はAIに直してもらう。

説明が足りなければ補ってもらう。

その一方で、自分の言い回しや、考えながら書いた跡までは消さない。

人間味を演じるため、わざと文章を崩したいわけではありません。

本当に自分で考えたからこそ残った粗さを、整えすぎないようにしたいのです。

「AI臭」の正体は、人間が見えないことかもしれない

最初、自分はAI臭を、文章や画像に残るAI特有のクセだと思っていました。

でも、ぬい日和への批判や、ピーマンPOPの脱臭を考えるうちに、少し見方が変わりました。

AIへの拒絶反応には、さまざまな理由があると思います。

著作権への不安かもしれない。

単純にAI画像の見た目が苦手なのかもしれない。

人間が作ったものを応援したい気持ちもあると思います。

その一つに、人間の労力や判断が見えないことへの不信感があるのかもしれません。

そう考えると、AI臭を消すことには、ある程度意味がありそうです。

ただし、必要なのはAIを使った事実を隠すことではありません。

見えなくなった人間の労力や判断を、伝わる形にすることです。

何を考えたのか。

なぜ、それを選んだのか。

どこに違和感を持ったのか。

何を自分で決めたのか。

そこが見えれば、AIをどれだけ使っていても、すべてが無個性になるわけではありません。

「AI臭を消す」とは、AIを人間らしく偽装することではない。

AIによって見えにくくなった人間を、もう一度パッケージの表側へ戻す作業なのだと思います。


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