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8月14日は、いつも仕事だった――阿曽夏祭りを支えた年月 | DECKY ARCHIVE 第33話


子どもの頃、8月14日は特別な日だった

阿曽の夏祭りは、僕が生まれるずっと前から続いていた。

父が若かった頃にも、すでに祭りはあったという。

今では8月14日の一日だけになっているけれど、昔は8月13日、14日、15日の3日間にわたって行われていた。

お盆になると、町を離れていた人たちも阿曽へ帰ってくる。

今より若い人もずっと多かった。

田舎には今ほど娯楽もなかったから、夏祭りは一年の中でも特別な楽しみだったのだと思う。




浴衣を着て、露店を見て回った

祭りの日だけ町に色が増えた

僕が子どもの頃も、夏祭りは楽しみだった。

おばあちゃんたちに浴衣を着せてもらって、町へ出ていった。

会場では青年団の人たちが踊り、婦人会の人たちも踊っていた。

年配の人から若い人まで、とにかくみんなが踊っていた記憶がある。

その周りには、的屋の露店が並んでいた。

りんご飴。

ホットドッグ。

フレンチドッグ。

金魚すくい。

型抜き。

ほかにも、いろいろな店があった。

今となっては全部を覚えているわけではない。

でも、祭りの日だけ町の中に色が増えたような感じがした。

子どもの僕にとっては、それだけで十分楽しかった。


見る祭りから、みんなで作る祭りへ

婦人会や青年団がバザーを始めた

時代が進むにつれて、祭りの形も変わっていった。

的屋の店だけではなく、地域の人たちが自分たちでバザーをするようになった。

婦人会。

青年団。

地域のいろいろな仲間たち。

僕の母も、そういう活動に関わっていた。

誰かに祭りを作ってもらうのではなく、

「自分たちで盛り上げよう」

という形へ、少しずつ変わっていったのだと思う。

そして、いつ頃からだったか、現在につながる「阿曽夏祭り」という形になっていった。


バブルの頃、祭りはもっと派手だった

ステージを作り、出演者を呼んだ時代

僕が高校を卒業する前後くらいだったと思う。

ちょうどバブルの頃だった。

今と比べると、祭りにもずいぶん勢いがあった。

ステージを作り、出演者を呼び、いろいろなイベントをした。

ものまねの人が来たことも何度かあった。

歌手がステージで歌うこともあった。

出演者によっては、

「あれが必要です」

「これも用意してください」

と、細かな注文が次々に来る。

田舎の電気屋が対応するには、なかなか大変なこともあった。

「やっぱりプロは違うな」と思った

一方で、本当のプロの歌手が来た時のことは覚えている。

小さな田舎の祭りだからといって手を抜くことなく、しっかりした声量で歌ってくれた。

「やっぱりプロは違うな」

そう思った。

ステージの表側ではなく、裏側から見ていたからこそ感じたことだった。




父の後ろで始めた祭りの仕事

高校生の頃から電線を引いた

夏祭りの裏側には、いつも父がいた。

父は会社の仕事として、祭りの電気設備に関わっていた。

ステージの照明。

音響。

会場照明。

バザーや露店への電源。

僕が子どもの頃は、それを父がやっていた。

そして高校生くらいになると、僕も手伝うようになった。

最初の頃は、正直なところ、

「また手伝わなあかんのか」

くらいだったと思う。

専門学校へ行って東京で生活していた頃も、夏休みに阿曽へ帰ってくると呼び出された。

朝8時頃から電線を引く。

機材を運ぶ。

会場を作る。

若かったから、今のように暑さも気にならなかった。

派手な色や柄の服を着て、妙に元気だけはあった。

その頃は、

「僕が祭りを支えている」

なんていう意識はなかった。

ただ父に言われて、手伝っていただけだった。


父と、やぶちゃんから教わった

仕事も祭りも、見ながら覚えていった

父だけではなかった。

父の弟、僕にとって叔父にあたる「やぶちゃん」も、長い間会社で一緒に仕事をしてきた。

電気のこと。

現場のこと。

仕事の段取り。

本当に手取り足取り、いろいろ教えてもらった。

父がいて、やぶちゃんがいて、その中で僕は仕事を覚えた。

だから夏祭りの仕事も、特別なものではなかった。

父たちがしていたことを見て、

手伝って、

覚えて、

気がつけば自分がするようになっていた。




表からは見えない、祭りの電気

一番大変だったのは露店への電源

ステージや照明も大変だった。

でも毎年することなので、ある程度は段取りが分かっている。

本当に大変だったのは、露店やバザーへの電源だった。

実行委員会には事前に、

「どこで電気を使うのか」

「どれくらいの容量が必要なのか」

を出してもらうようお願いしていた。

ところが当日になると必ず、

「こっちにも電気がほしい」

「あっちにもほしい」

となる。

申告していた以上の電気を使おうとする店もある。

コンセントがあれば使えるわけではない

電気には容量がある。

容量とは、簡単に言えば一度に安全に使える電気の大きさのことだ。

コンセントがあるからといって、何でも好きなだけ使えるわけではない。

祭りの途中で電気が落ちれば、露店も止まる。

場合によってはステージにも影響する。

だから会場を歩き回りながら、

「ここは使える」

「ここはもう無理」

と考え続ける。

表ではみんなが祭りを楽しんでいる。

その裏で、僕たちは電線と電気容量のことをずっと考えていた。




8月14日だけが祭りではなかった

祭りは何日も前から始まっていた

夏祭りは8月14日。

でも、支える側にとっての祭りは、その一日だけではなかった。

何日も前から材料や機材を段取りする。

2日前くらいから準備が始まる。

前日も会場へ行く。

責任が増えてくると、実行委員会の会議にも出た。

人前で話したり、

段取りについて意見を言ったり、

祭りそのものを動かす側になっていった。

若い頃は、

「手伝っとるだけ」

だったのに、

いつの間にか責任を持つ側になっていた。


祭り当日の朝は早かった

朝7時頃から始まる8月14日

若い頃は、少しダラダラしながら8時頃に出ていったこともあった。

でも責任が出てくると、そうはいかない。

朝7時頃には動き始める。

会場を回る。

電源を見る。

ステージを見る。

必要なものがあれば対応する。

そして夜になれば、祭りが始まる。

でも、僕たちの仕事は祭りが始まっても終わらない。

むしろそこからが本番だった。


終わった翌朝までが夏祭り

夜遅くまで飲んでも、朝には片付け

祭りが無事に終わる。

その後はみんなで飲むこともあった。

夜遅くまで飲んでいても、翌朝にはまた会場へ行く。

8時頃になると、地域の年配の人たちが片付けに集まってくる。

その前に、僕たちは電線を外す。

機材を撤収する。

危ないものを片付ける。

みんなが集まった時には、すぐ作業できる状態にしておく。

そうしてようやく、僕たちの夏祭りが終わった。

8月15日。

「やっと休めるな」

そんな感じだった。




「どうせなら目立つものを出そう」

抽選会に大きな冷凍庫を出した

昔の夏祭りには、大きな抽選会もあった。

ある年、

「どうせ景品を出すなら、目立つものの方がええやろ」

と思った。

そこで会社から、大きな冷凍庫を景品として提供した。

何年だったかは、もうはっきり覚えていない。

会社にも勢いがあって、

僕自身もまだ若く、

「まあ、なんとかなるやろ」

くらいに思っていた頃だった。

冷凍庫を担いで帰った当選者

その冷凍庫を当てたのは、外国人の人だった。

大きな冷凍庫を、みんなで担ぐようにして持って帰っていった。

あの光景は今でもなんとなく覚えている。

祭りは予定どおりに進むことばかりではない。

こういう予想もしない出来事があるから面白かった。




父親になっても、祭りは仕事だった

子どもたちと祭りを歩いた記憶は少ない

やがて僕にも子どもができた。

かずき。

こうよう。

まっきー。

普通なら、父親として子どもを連れて夏祭りへ行くのだと思う。

でも僕には、ほとんどその記憶がない。

祭りの日は電気設備の仕事がある。

そして消防団の警備もある。

子どもたちは、りえや母たちと祭りを回ったり、自分たちで遊びに行ったりしていた。

「それが自分の役目」と思っていた

当時の僕は、それを特別寂しいとは思っていなかった。

「仕方ない」

という感覚もあった。

でも、それ以上に、

「自分はこれをする立場なんや」

と思っていた。

祭りを支える。

電気を見る。

消防団として警備する。

それが自分の役目だった。




自分が分団長になって変えたこと

若い団員にも家族との祭りを

消防団の幹部になってからも、僕は毎年のように夏祭りの警備に出ていた。

でも、阿曽地区を担当する第4分団の分団長になった頃、少し考えた。

若い団員たちにも小さな子どもがいる。

その人たちまで、毎年必ず警備に出なければならない。

僕自身がずっとそうだったから、それが当たり前になっていた。

でも、

「毎年同じ人が警備せんでもええやろ」

と思った。

警備を交代制にした

そこで、分団の中で警備を交代して担当する形に変えた。

祭りへ行ける年。

警備する年。

交代すればいい。

若い団員たちは喜んでくれた。

当時はそこまで深く考えていなかった。

でも今振り返ると、

自分が子どもたちとできなかったことを、

次の若い父親たちにはしてほしかったのかもしれない。


2017年8月14日

大紀町消防団副団長として迎えた夏祭り

そして2017年。

この頃の僕は、阿曽分団長からさらに立場が上がり、大紀町消防団副団長になっていた。

8月14日。

阿曽温泉の入口付近、旧阿曽小学校グラウンド周辺で行われた阿曽夏祭り。

この年の祭りで、具体的に何があったのか。

細かなことは、正直ほとんど覚えていない。

でも、自分がどんな動きをしていたのかは想像できる。

電気設備を気にしながら会場を歩く。

消防団の警備も気にする。

何か起これば動けるようにする。

子どもの頃、浴衣を着て露店を楽しみにしていた僕は、

いつの間にか、祭りを支える側の真ん中にいた。




昔は町全体にもっと勢いがあった

団塊の世代がまだバリバリ動いていた

2017年頃は、今より町全体が若かった。

団塊の世代の人たちがまだ大勢いて、地域活動でもバリバリ動いていた。

僕たちは、その人たちより20歳くらい若い世代だった。

勢いでは負けることもあった。

年上の人たちは元気だった。

でも僕自身も、自営業として会社を経営する立場になり、地域の中ではちょうど真ん中くらいの世代になっていた。

言うべきことは言うようになった

若い頃は、年上の人についていくだけだった。

でも責任が増えてくると、

「それは違うんちゃうか」

「こうした方がええんちゃうか」

と、自分の意見も言うようになった。

祭りの仕事をしながら、僕自身の立場も少しずつ変わっていった。


祭りは勝手には続かない

誰かが裏側で動いている

子どもの頃は、誰かが祭りを作ってくれているなんて考えもしなかった。

ただ楽しかった。

大人が踊っている。

店が並んでいる。

食べ物を買う。

遊ぶ。

でも大人になって分かった。

祭りは、勝手に続いていくものではない。

電線を引く人がいる。

店を出す人がいる。

踊る人がいる。

警備する人がいる。

翌朝、片付ける人がいる。

そして、

「今年もやろう」

と言い続ける人がいる。

その人たちがいるから、祭りは続いていく。


楽しむ側から、支える側へ

父たちから受け取ったもの

僕も長い間、その中の一人だった。

父がやっていた。

やぶちゃんが教えてくれた。

そして僕が引き継いだ。

さらに消防団では、次の若い世代へ少しずつ役割を渡していった。

子どもの頃に楽しませてもらった阿曽夏祭り。

大人になった僕は、それを支える側になった。

特別なことをしたつもりはない。

その時その時、自分の役目だと思ったことをしていただけだった。




8月14日が来るたびに

8月14日。

僕にとって夏祭りは、いつの間にか「遊びに行く日」ではなくなっていた。

何日も前から準備をして、

当日は朝から動いて、

夜は電気や警備を気にして、

翌朝にはまた片付けをする。

それでも、会場に明かりが灯り、

音楽が流れ、

地域の人たちが集まってくると、

やっぱりうれしかった。

たぶん僕は、いつの間にか、

祭りで遊ぶことよりも、

祭りが無事に始まり、無事に終わることを喜ぶ大人になっていた。

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