当たり前の連携ができるまで――自主防災と消防団をつないだ日々 DECKY ARCHIVE 第31話
今では、阿曽の自主防災の会議に消防団が一緒に入ることは、特別なことではなくなっている。
地域で何かあれば、自主防災と消防団が連携する。
考えてみれば、当たり前のことだと思う。
けれど、その「当たり前」は、最初からあったわけではなかった。
僕がまだ阿曽分団の分団長だった頃まで、話はさかのぼる。
自主防災組織ができると聞いた
ある時、阿曽に自主防災組織ができることになった。
自主防災組織というのは、災害が起きた時に、地域の人たちが自分たちの地域を守るために動く組織だ。
避難の呼びかけをしたり、安否を確認したり、場合によっては初期消火をしたりする。
当然、地域にとって大切な組織だと思う。
だから、自主防災組織ができること自体に、僕は何の反対もなかった。
ただ、ひとつだけ納得できないことがあった。
消防団に何の話もなかった。
僕は当時、阿曽分団の分団長だった。
それなのに、
「自主防災組織を作ります」
という説明もなければ、
「こういう形で動きます」
という連絡もない。
発足することすら、消防団にはきちんと知らされていなかった。
それを知った時、僕はかなり腹が立った。

「消防団に何も言わんのは、おかしいやろ」
僕が腹を立てたのは、
「俺に話がなかった」
ということだけではない。
実際に大きな災害が起きれば、消防団も必ず動く。
自主防災組織も動く。
同じ阿曽の中で、同じ地域の人たちを守るために活動することになる。
それなのに、普段からお互いが何をするのか知らない。
誰がどこへ行くのかも分からない。
誰から情報をもらえばいいのかも分からない。
そんな状態で、本当に災害が起きた時に連携できるはずがない。
僕には、そう思えた。
それで、その時の阿曽区長の家まで話をしに行った。
夕方だったか、夜だったか。
そこまでは、もうはっきり覚えていない。
ただ、区長の家まで直接行って、
「自主防災の組織を作るのに、消防団に何も言わんのはどういうことや」
という話をしたことは覚えている。

組織を作るだけでは意味がない
僕が言いたかったのは、単純だった。
自主防災と消防団。
名前は違っても、守る場所は同じ。
守る人も同じ。
だったら、最初から一緒に話をしておかなあかん。
僕はそんな考えだった。
自主防災組織の発足式だったのか、結団式だったのか、その名前までは今となっては覚えていない。
ただ、組織が正式に動き始める時には、阿曽分団の団員も呼んでもらって、一緒に訓練をさせてもらうような話をした記憶がある。
組織を作って、
「これで防災体制ができました」
では意味がない。
本当に必要なのは、災害が起きた時に動けることだった。
区長が代わっても、終わりにはしたくなかった
その後、阿曽区長が代わった。
新しい区長になった時、自主防災についてはあまり積極的ではなかったような記憶がある。
その頃も、僕はまだ消防団の中で責任のある立場にいた。
せっかく前の区長の時に、
「自主防災と消防団は一緒に動こう」
という話をしてきたのに、区長が代わるたびに全部なくなってしまったら意味がない。
だから、また話をした。
「前の区長の時に、こういう話になっとる」
「自主防災の会議もちゃんとしてもらわなあかん」
「消防団も一緒に入って話をさせてもらう」
そんなことを伝えた覚えがある。

いつの間にか、それが当たり前になった
それから年月が流れた。
自主防災の会議があれば、消防団も一緒に参加する。
地域の防災について、同じ場所で話をする。
いつの間にか、それが普通になっていった。
今となっては、
「どうして消防団もこの会議に入っとるんやろ」
と考える人も、ほとんどいないと思う。
最初の経緯を知っている人も、だんだん少なくなった。
でも僕にとっては、その始まりを覚えている。
最初は、何の連絡もなかった。
それに腹を立てて、区長の家まで話をしに行った。
そこから始まった。
今、当たり前に続いていることも、誰かが最初に動かなければ始まらなかった。
2017年にも残っていた、その流れ
2017年のカレンダーを見ると、
7月7日に「自主防災本部会議」。
そして7月28日にも「自主防災会議」。
そんな予定が残っている。
この2017年に突然、自主防災と消防団の連携が始まったわけではない。
もっとずっと前。
僕が阿曽分団長だった頃から続いてきたものだった。
だから、このカレンダーの文字を見た時、
「ああ、まだ続いとったんやな」
と思う。
自分が昔動いたことが、その後も地域の仕組みとして残っていた。
そう考えると、少し不思議な気持ちになる。

そして夏季訓練へ
その二日後。
2017年7月30日のカレンダーには、
「消防団夏季訓練」
と残っている。
この頃の僕は、もう阿曽分団長ではなかった。
大紀町消防団の副団長になっていた。
若い頃は、自分が訓練を受ける側だった。
分団長になれば、自分の分団をどう動かすかを考えるようになった。
そして副団長になると、もっと広く消防団全体を見る立場になる。
どんな訓練をするのか。
何を身につけてもらうのか。
どう教えれば分かってもらえるのか。
そして何より、訓練中に事故を起こさないこと。
立場が変わるたびに、見るものも変わっていった。
この日の夏季訓練で、具体的に何をしたのかは、正直なところ細かくは覚えていない。
いろいろな訓練をしてきたので、どの年に何をしたのかが、今では混ざっているところもある。
だから、覚えていないことまで作って書くつもりはない。
ただ、この頃の僕が、
「ただ訓練に参加する人」
ではなかったことだけは確かだった。

阿曽だけができても意味がない
僕が阿曽分団長だった頃、阿曽分団の訓練にはかなり力を入れた。
何度も繰り返して、団員たちの動きを合わせていった。
その結果、阿曽分団のレベルはかなり上がったと思っている。
でも、そこで終わったらあかん。
実際の災害では、阿曽分団だけで動くとは限らない。
隣の滝原分団と一緒に活動することもある。
阿曽だけが動けても、滝原とうまく連携できなかったら、現場全体では困る。
だから僕は、阿曽と滝原の合同訓練もかなりやった。
僕の中には、
「阿曽だけが強くてもあかん」
という考えがあった。
できるところだけが先へ行くのではなく、分かるように教えて、一緒に動けるところまで持っていく。
それが、本当の意味で地域の消防力を上げることだと思っていた。
2017年7月30日の夏季訓練そのものが滝原との合同だったかどうかは、今の記憶では断定できない。
でも、この頃、阿曽と滝原の連携を意識して訓練を重ねていたことは覚えている。

訓練が終われば、一緒にバーベキュー
合同訓練の後には、みんなでバーベキューをしたこともあった。
訓練が終わった後に、肉を焼いて、食べて、しゃべる。
一見すると、ただの親睦会だ。
でも、僕はこういう時間も大事だと思っていた。
災害の時だけ、
「今日から一緒に動きましょう」
と言っても、なかなかうまくはいかない。
普段から顔を知っている。
名前を知っている。
どんな性格なのかも分かっている。
そんな関係があれば、現場での声の掛け方も変わる。
訓練で技術を合わせる。
その後、一緒に飯を食べて、人間関係を作る。
それも僕にとっては、消防団の大切な活動のひとつだった。

当たり前は、誰かが作ったものだった
自主防災と消防団。
阿曽分団と滝原分団。
組織の名前は違う。
立場も違う。
でも、守る地域は同じだった。
今では、自主防災と消防団が一緒に会議をすることも、隣の分団と連携することも、当たり前に見えるかもしれない。
けれど、その当たり前は、最初からそこにあったものではない。
「それ、おかしいやろ」
と思った人間が声を上げる。
相手のところへ行って話をする。
一度で終わらせず、区長が代わってもまた話をする。
訓練を重ねる。
一緒に飯を食べる。
そんな小さな積み重ねの先に、今の形ができていった。
僕が区長の家まで話をしに行った時、何年も先までこの形が残るなんて考えてはいなかったと思う。
ただ、
「災害が起きた時に困らんようにせなあかん」
それだけだった。
2017年のカレンダーに残っていた、
「自主防災本部会議」
「自主防災会議」
「消防団夏季訓練」
という短い文字。
その一つひとつをたどっていくと、もっと昔の自分が動いていたところまでつながっていた。
地域を守る仕組みというのは、建物や消防車だけではない。
人と人がつながっていること。
一緒に動ける関係を、災害が起きる前に作っておくこと。
それもまた、地域を守るために必要なものだったのだと思う。

