DECKY ARCHIVE 第9話 父の命日に結婚式を挙げた理由
人生には、どうしても忘れたくない日がある。
僕にとって、その日が4月29日だった。
父が脳出血で亡くなった日。
まだ51歳という若さだった。
僕は父が大好きだった。
もちろん、怖い父でもあった。怒られたことも何度もある。世間の人からは、「あんたのお父さん、怖そうやな」と言われることもあった。
けれど、僕にとっては優しい父だった。
父の周りには、いつも人が集まっていた。
若い人たちを家へ連れてきては、みんなで酒を飲み、大きな声で笑い、家の中はいつもにぎやかだった。地域の人たちもよく出入りしていた。
子どもの頃は、それが当たり前だと思っていた。
けれど、自分が大人になり、地域の中でいろいろな役をするようになってから、少しずつ分かってきた。
人が集まるということは、それだけ父が人に慕われていたということだったのだと思う。
そんな父が亡くなったあと、会社を守ってくれたのは母と叔父だった。
母が社長になり、叔父が支え、二人で必死に会社を切り盛りしてくれた。
僕は現場に出て、目の前の仕事を一生懸命こなしていた。
父を早くに亡くしたことで、地域の寄り合いや消防団、さまざまな集まりにも、若い頃から出るようになった。
23歳くらいから、父がしていたことを少しずつ引き受けていたのだと思う。
その頃、僕はりえと出会った。
最初に会ったのは、飲み屋だった。
みんなで酒を飲み、カラオケを歌い、にぎやかに騒いでいた。
りえもそこにいた。
けれど、その時は特別に気になったわけではなかった。
「そこにおるな」
そのくらいだったと思う。
その後、妹の友達の結婚式で、りえと再び会った。
披露宴が終わり、二次会になった頃だった。
りえは知っている人が少なかったのか、なぜか僕の近くにいることが多かった。
話しかけてきたり、隣に座ったり、一緒に笑ったり。
気がつくと、ずっと僕のそばにいた。
最初は何とも思っていなかったのに、一緒に過ごしているうちに、少しずつかわいく見えてきた。
話していても気を使わず、素直で、ええ子やなと思った。
そして、僕らしいというのか、照れ隠しだったのか、こんなことを言った。
「しゃあないな。俺がもらったるわ」
今思えば、ずいぶん上から目線の言葉だった。
それでも、あれが僕なりのプロポーズだったのかもしれない。
僕が28歳。
りえが24歳だった。
結婚式の日を決める時、僕には一つだけ希望があった。
4月29日にしたかった。
父の命日だった。
父のことを忘れないため。
それと同時に、自分たちの結婚記念日も忘れないためだった。
僕は結婚式を挙げた日は覚えているけれど、入籍した日は今でもはっきり覚えていない。
だからこそ、4月29日なら絶対に忘れないと思った。
それに、4月29日は祝日だった。
毎年休みになる。
「休みやったら、結婚記念日にどこかへ行けるかもしれんな」
そんな現実的な考えも少しあった。
父が亡くなった悲しい日を、ただ悲しいだけの日にはしたくなかった。
父を思い出しながら、家族の始まりも思い出せる日にしたかった。
結婚式は、僕らしく盛大だった。
何人来てくれたのか、今では正確には覚えていないけれど、150人近くいたと思う。
もっと多かったかもしれない。
二次会だけでも80人ほど集まった。
普通の二次会というより、もう一度結婚式をするような規模だった。
会場を借り、みんなで飲み、歌い、大騒ぎした。
派手なことが好きだった僕にとって、本当に楽しい一日だった。
東京の専門学校時代の友達も、レンタカーを借りて6人ほどで来てくれた。
その中には、学校にいた頃はそれほど話をしていなかった友達もいた。
けれど、僕の結婚式に来てくれたことがきっかけで、その後とても仲良くなった。
一緒に旅行へ行くようになり、長い付き合いになった仲間もいる。
結婚式という一日が、その後何十年も続く縁をつないでくれた。
人生は不思議なものだと思う。
りえと結婚し、家族は少しずつ増えていった。
最初に生まれたのが、長男のかずきだった。
初めての子どもだったので、僕も心配で仕方がなかった。
りえが入院している病院へ何度も行き、落ち着かないまま、その時を待っていた記憶がある。
父親になるということが、まだよく分かっていなかった。
それでも、生まれてきたかずきを見た時は、うれしかった。
次に生まれたのが、こうようだった。
ところが、こうようが生まれる時の僕は、かずきの時とは少し違っていた。
りえが臨月だというのに、親戚の家で酒を飲んでいた。
「まだ大丈夫やろ」
そんなふうに考えていたのだと思う。
そして連絡が入り、酔ったまま病院へ向かったような記憶がある。
今考えると、とても褒められた話ではない。
三男のまきと(マッキー)の時も、似たようなものだった。
りえの実家へ行き、「まだ大丈夫やよ」という言葉を聞いて、僕は友達とカラオケへ行った。
飲んで、歌って、思い切り騒いでいた。
ところが、いよいよ生まれそうだと連絡が入り、慌てて病院へ向かった。
二日酔いだったのか、まだ酔っていたのか、それすらはっきり覚えていない。
本当に若かった。
三人の子どもが生まれ、家の中は一気ににぎやかになった。
子どもたちを三人まとめて抱っこしたこともあった。
かずきは長男だったので、弟たちのことをよく見てくれていたと思う。
こうようがいて、マッキーがいて、家族五人で過ごす毎日は、忙しかったけれど楽しかった。
ただ、子育ての大変な部分を背負ってくれていたのは、ほとんどりえだった。
僕は仕事が忙しかった。
地域の付き合いもあった。
そして、飲み会も忙しかった。
家族を持ち、父親になっていたのに、まだ自分自身が子どもだったのだと思う。
仕事をしていればええ。
地域の役に出ていればええ。
そんなふうに考えていたところもあった。
けれど、その間、りえは三人の子どもを育て、家を守ってくれていた。
今になって思う。
本当に大変だったと思う。
ありがとうという気持ちと同時に、申し訳なかったという気持ちもある。
それでも、僕が若い頃から地域の集まりへ出てきたことは、今につながっている。
父が早く亡くなったことで、同年代の人よりも早く、大人たちの中へ入っていくことになった。
大変なことも多かった。
けれど、あの頃から顔を出し続けてきたことで、今でも地域の人たちに認めてもらえている部分があると思う。
自分がそう思っているだけかもしれない。
それでも、「若い頃から、いろいろやってきたな」と見てもらえている気がする。
家庭もできた。
子どもも三人生まれた。
仕事も忙しかった。
表面だけを見れば、毎日は順調に進んでいるように見えていた。
けれど、その頃から、会社の中には少しずつ違和感が出始めていた。
母が経理をしていた。
仕事が増え、帳簿やお金の管理も、だんだん複雑になっていたのだと思う。
僕はパソコンが好きだったので、何度か母に言った。
「パソコンで全部きっちり管理した方がええんちゃうか」
けれど、母はなかなか変えようとしなかった。
「まだ何とかなる」
そんな返事だったように思う。
僕は、もっときちんと管理した方がいいのにな、と感じていた。
今振り返れば、あの頃から少しずつ会社の歯車が狂い始めていたのかもしれない。
結婚し、父親になり、守る家族が増えていった。
けれど、その時の僕はまだ知らなかった。
この先、父が残し、母と叔父が守ってきた会社が、潰れる寸前まで追い込まれることを。
