DECKY ARCHIVE 第8話
社会人一年目。技術より先に、人として育ててもらった。
専門学校を卒業し、いよいよ就職を考える時期になった。
東京での生活は本当に刺激が多く、たくさんの経験をさせてもらった。でも、卒業したからといって、すぐに三重へ帰ろうとは思わなかった。
東京から故郷へ戻るには、あまりにもギャップが大きすぎる。
都会での暮らしに慣れた自分が、いきなり田舎へ戻るのは少し戸惑いがあった。それに、社会人としてまずは外で修業したいという思いも強かった。
「帰るなら、もう少し力をつけてから。」
そう考えた僕は、東京と三重のちょうど中間にある名古屋で就職することを決めた。
就職先は、付き合いのあったメーカーから紹介していただいた会社だった。
放送設備やテレビの共同受信設備、音響設備、電気工事などを手掛ける老舗の会社で、社員数は十人いるかいないかくらい。
決して大きな会社ではなかったが、僕にとっては社会人としての原点になる場所だった。
社会人になって初めての出勤の日。
電車に揺られながら、「今日から社会人なんやな」と緊張していたことを今でも覚えている。
会社へ着くと、初めて社員のみなさんに挨拶をした。
先輩たちは親くらい年上の人もいれば、十歳ほど年上の人もいた。
挨拶が終わると、そのまま現場へ向かった。
もちろん何もできない。
材料を運び、道具を持ち、先輩の後ろをついて回る毎日だった。
それでも、先輩たちは本当に優しかった。
「これはこうやるんや。」
「次はこれを持ってきて。」
一つひとつ丁寧に教えてくれた。
今思えば、本当に恵まれた環境だった。
仕事は決して楽ではなかった。
毎日覚えることばかりで、気が付けば半年が過ぎていた。
すると突然、
「次は一人で行ってきて。」
そう言われた。
正直、不安だった。
でも、その日から一気に成長した。
現場監督と打ち合わせをし、スピーカーを取り付け、アンテナを建てる。
責任も一気に大きくなった。
分からないことばかりだったが、自分で考え、分からなければ先輩に聞いた。
あの半年からの一年は、本当に勉強の日々だった。
もともと僕は、人よりできないことが嫌な性格だった。
特に電気の仕事だけは負けたくない。
そんな気持ちが強かったから、分からないことは徹底的に勉強した。
そして、分からないことは素直に聞いた。
「どうしたらいいですか?」
若かったからこそ、その一言が自然に言えた。
今思えば、それが一番の財産だったのかもしれない。
年齢を重ねると、どうしてもプライドが邪魔をして、人に聞けなくなる。
でも当時は何も知らない新人だったからこそ、たくさんの人が惜しみなく教えてくれた。
その積み重ねが、今の自分の土台になっている。
初任給をもらった日も忘れられない。
両親を名古屋まで呼び、一緒に食事をした。
わざわざ来てもらったのか、たまたま用事があったのかはもう覚えていない。
でも、自分で初めて稼いだお金で両親にご飯をごちそうしたことだけは、今でも心に残っている。
月日はあっという間に過ぎていった。
会社の仕事にも慣れ、少しずつ一人で現場を任されるようになっていた。
当時はバブル景気の真っ只中。
仕事はいくらでもあった。
技術を身につけた先輩たちは次々と独立し、自分の会社を立ち上げていった。
気が付けば、会社に残っていた社員は僕を入れて二人か三人ほどになっていた。
そんな頃になると、僕にもいろいろな話が舞い込んできた。
「うちへ来ないか。」
「娘と結婚して、この会社を継いでくれ。」
今では信じられないような話だけれど、当時は本当に何度も声をかけてもらった。
それだけ期待していただいていたのだと思う。
もちろん、ありがたい話だった。
でも、僕には最初から決めていたことがあった。
「実家を継がなあかんので、すみません。」
その返事だけは、どれだけ誘われても変わらなかった。
仕事では、下請けの職人さんたちにも本当によくかわいがってもらった。
昼ご飯をごちそうになったり、仕事が終われば夕食に連れて行ってもらったり。
現場では厳しくても、仕事を離れれば温かい人ばかりだった。
一方で、仕事は想像以上に厳しかった。
消防検査や建築検査が近づくと、夜中の一時、二時まで作業を続けることも珍しくない。
翌朝にはまた八時から現場が始まる。
今では考えられないような働き方だったけれど、その経験が技術だけでなく、責任感や現場での判断力を育ててくれた。
社会人三年目。
会社から「あと二年いてほしい」と引き留めてもらった。
社長だけでなく、経理を担当していた社長の奥さんまで時間を作って話をしてくれた。
さらに、両親とも話をしてくださった。
当時の僕は、お金を目的に働いていたわけではなかった。
だから給料に大きな不満はなかった。
それでも、「この仕事量なら、もう少し評価してもいいんじゃないか」と会社も考えてくれたのだろう。
年度が変わった四月から、給料は一気に五万円上がった。
本当にありがたい評価だった。
でも、人生は思いどおりには進まない。
その年の四月。
父が突然倒れ、この世を去った。
まだ五十一歳だった。
その知らせを受けた瞬間、僕の人生は大きく方向を変えることになる。
迷う時間はなかった。
実家へ帰り、家業であるタキハラムセンを継ぐ。
それが、僕に与えられた新しい使命だった。
社会人として育ててもらった三年間。
そこで学んだ技術、人とのつながり、そして働く姿勢は、今でも僕の人生の礎になっている。
そして、この三年間が終わった時、本当の意味で「村田家の跡継ぎ」としての人生が始まった。
