DECKY ARCHIVE 第15話 仕事が来る前に、車と道具を揃えた
光ファイバー工事が、いずれ自分たちの地域まで広がってくる。
その流れは、もう見えていた。
けれど僕は、地元まで工事が来るのを、ただ待っていたわけではなかった。
当時、ケーブルテレビ会社の本社があった松阪の方から、光ファイバー工事に入らせてもらった。
まだ会社の班は、2班か3班ほどだった。
今のように十分な人数や設備が揃っていたわけではなかったけれど、これから工事が増えていくことは分かっていた。
だから、仕事が本格的に増えてから慌てるのではなく、少しずつ人と道具を揃えていった。
新しく入った従業員は、もともと工場で働いていた未経験者だった。
光ファイバー工事のことは、何も分からないところからのスタートだった。
最初は僕が一緒について、毎日現場を回った。
光ファイバーの扱い方。
線のつなぎ方。
機械の使い方。
お客さんへの説明。
約束した時間を守ること。
車をどこへ止めるか。
近所の人や通行する車への気配り。
工事というのは、ただ線をつないだら終わりではなかった。
田舎の現場では、比較的広い場所で仕事をすることが多かった。
けれど松阪のような市街地へ行くと、事情がまったく違った。
道は狭く、車を止める場所も少ない。
少し作業が長引くだけでも、近所の人や通行する人に迷惑がかかることがあった。
時間に対する感覚も、田舎とは違っていた。
何時に伺うのか。
どれくらいで終わるのか。
約束をすると、そこをきっちり守ることが求められた。
もちろん人によって違いはあったけれど、工事の技術だけではなく、場所や相手に合わせた動き方も必要だった。
その一つひとつを、僕自身も現場で学びながら、新しく入った従業員へ教えていった。
班を増やすためには、人を雇うだけでは足りなかった。
車も必要だった。
工具も必要だった。
光ファイバーを接続するための融着機も必要だった。
融着機というのは、細い光ファイバー同士を熱で溶かして接続する専用の機械だった。
最初は1台だけ持っていた。
けれど、班を増やして別々の現場へ出るためには、もう1台、もう1台と必要になっていった。
当時は1台100万円近くする高価な機械だった。
簡単に買えるような金額ではなかったけれど、仕事が増えることを見越して投資した。
高所作業車も買い替えた。
父親の代から使っていた高所作業車があり、僕が会社へ戻る前からずっと働いてくれていた。
正確には覚えていないけれど、20年近く使った車だったと思う。
長い間、会社の現場を支えてくれた大切な車だった。
けれど、光ファイバー工事を本格的に進めていく中で、古い車に何かあってはいけなかった。
安全のことも考え、新しい高所作業車へ投資した。
融着機も、高所作業車も、工具も、仕事が確実にあるから買ったというより、これから仕事が増えると信じて揃えたものだった。
若かったこともあり、僕には野心もあった。
仕事を増やしたい。
会社を大きくしたい。
これまで苦しかった分を取り戻したい。
そんな思いも、たぶん強かった。
工事に関わる人も増えていった。
従業員や外注を合わせると、多い時には12人ほどになっていたと思う。
正確にいつから12人だったのかは、はっきり覚えていない。
それでも、2班、3班を動かす中で、以前より多くの人が会社の仕事に関わるようになっていたことは確かだった。
その人たちと元請け業者の間には、ほとんど僕が入っていた。
翌日の工事場所を決める。
人を割り振る。
材料を準備する。
現場の進み具合を確認する。
問題が起きれば連絡を受ける。
お客さんから苦情や相談があれば、自分が説明に行く。
昼間は現場へ出て、夜は管理と段取りをする。
頭の中は、朝から晩までフル稼働だった。
事務の方は、りえが仕切ってくれていた。
電話、書類、請求、連絡。
そこをりえが支えてくれていたから、現場は何とか回っていたのだと思う。
けれど、光ファイバー工事だけをしていたわけではなかった。
家電販売もあった。
エアコン工事もあった。
一般の電気工事もあった。
ケーブルテレビの同軸ケーブル工事も続いていた。
さらに、少し大きな電気工事の現場も、時々請け負っていた。
2015年の記録を見ると、寺院の外灯やエアコン、消防施設のエアコン交換、宿泊施設の弱電工事、住宅の照明プラン、看板工事など、いろいろな仕事が残っている。
光ファイバー工事を中心にしながら、それ以外の仕事も並行して進めていた。
できるだけ仕事を抑えようと思ったこともあった。
それでも、頼まれれば断れない仕事があり、光ファイバー工事も次々と入ってきた。
毎日、本当に忙しかった。
ただ、2015年の僕は、会社の仕事だけに全力だったわけではなかった。
その年、三男のマッキーは小学6年生だった。
僕は小学校のPTA会長をしていた。
PTA総会の時、みんなの前で、
「今年は子どもたちのために、クリスマスパーティーをやります」
と話した。
言ったからには、やらなければならない。
6月頃から実行委員を募集し、会議を重ね、年末のクリスマスパーティーに向けて動き始めた。
仕事だけでも頭も体もいっぱいだったのに、そこへPTAの大きな行事も加わった。
今考えると、ようあれだけ動けたと思う。
しんどかった。
本当に大変だった。
それでも、子どもたちはすごく喜んでくれた。
あれほどのクリスマスパーティーは、もう二度とできないかもしれない。
けれど、あの頃の僕には、それをやり切るだけの力があった。
光ファイバー工事のために車と道具を揃え、人を育て、現場と管理を両方こなしながら、PTA会長としても子どもたちのために動いていた。
家に帰る時間は遅くなり、家族とゆっくり過ごす時間も少なくなっていった。
その頃の家族のことは、また別の話で書きたいと思う。
振り返れば、2015年は仕事も地域の活動も、すべてを全力で走っていた一年だった。
まだ2班、3班だった。
けれど、次に来る大きな波を見ながら、僕はもう、その先へ進む準備を始めていた。
最後の一言
仕事が来てから動くのではなく、来ると信じて先に動いた。
あの頃の僕は、怖さよりも前へ進みたい気持ちの方が、ずっと大きかった。
