DECKY ARCHIVE 第7話
東京で覚えた、一人暮らしと仲間のありがたさ。
父の「どうせ行くなら、日本の首都を見てこい。」という言葉を胸に、僕は東京へ出た。
期待よりも不安のほうが大きかったと思う。
頼れる親戚もいない。初めての一人暮らし。見るものすべてが田舎とは違っていた。
学校へは毎日電車かバイクで通った。
朝のホームには人があふれ、満員電車では身動きも取れない。
「こんなに人がおるんや……。」
田舎では考えられない光景だった。
人の多さにも、街の大きさにも圧倒されながら、それでも毎日学校へ向かった。
一人暮らしも想像以上に大変だった。
実家から送ってもらうお米が何よりの楽しみだった。
缶詰も一緒に送ってもらい、それが食卓の定番だった。
ご飯を炊いて、缶詰を開ける。
決して豪華ではないけれど、それで十分だった。
今思えば、親が送ってくれた荷物には、お米や缶詰だけではなく、「頑張れ」という気持ちも一緒に詰まっていたんだと思う。
それまで家では当たり前だったことが、一人暮らしになると当たり前ではなくなる。
洗濯も掃除も買い物も、自分でやらなければ誰もやってくれない。
そんな生活を続けるうちに、少しずつ大人になっていったような気がする。
専門学校では、電気工事や家電について学んだ。
将来、実家の電気屋を継ぐことも頭にあったので、どの授業も真剣だった。
実習では工具を持ち、配線を組み、機械を触りながら技術を身につけていく。
教科書だけでは学べないことがたくさんあり、とても充実していた。
ただ、勉強以上に苦労したことがあった。
それは「言葉」だった。
クラスには東日本出身の学生が多く、関西寄りの話し方をするのは僕一人だった。
言葉のイントネーションも違えば、使う表現も違う。
何気なく話した言葉が伝わらなかったり、冗談が通じなかったりすることもあった。
時には誤解され、人とぶつかったこともある。
若かったこともあり、お互いに意地を張ってしまうこともあった。
「ああ、ここは三重とは違う世界なんやな。」
そんなことを何度も感じた。
学校に入ったばかりの頃は、本当に仲のいい友達と呼べるのは三人くらいだったと思う。
最初はみんな少し距離があった。
でも、一緒に授業を受け、実習をして、ご飯を食べ、笑い合う時間が増えるにつれて、少しずつ距離は縮まっていった。
卒業する頃には、その輪はずいぶん大きくなっていた。
気がつけば、いつも一緒にいる仲間が十人ほどになっていた。
今でも思い出す顔がたくさんある。
そして面白かったのは、みんなの話し方だった。
僕と一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、少しずつ関西弁のような話し方が移っていった。
ある友達は家に帰ると、
「最近、関西の友達と付き合ってるのか?」
と家族から言われたそうだ。
その話を聞いた時は、みんなで大笑いした。
言葉の違いで苦労したはずなのに、最後にはその言葉が仲間をつないでいた。
今振り返ると、東京で学んだ一番大きなことは、電気の技術ではなかったのかもしれない。
育った場所が違っても、話す言葉が違っても、一緒に過ごす時間があれば人は仲良くなれる。
最初は壁だと思っていたものが、いつしか笑い話になる。
そんな経験を、東京で初めて知った。
父は「日本の首都を見てこい」と言って僕を送り出してくれた。
あの時は、その意味を深く考えることはなかった。
でも今なら分かる。
父が見てほしかったのは、高いビルや大きな街ではなかった。
自分とは違う人たちと出会い、世界の広さを知ること。
そして、その中で自分自身も成長すること。
東京で過ごした時間は、僕に技術だけでなく、人との付き合い方や、自分の世界を広げる大切さを教えてくれた。
