知らない町へ、光をつなぎに行った頃|DECKY ARCHIVE 第24話
2016年の夏から、2017年の春にかけて。
会社の仕事は、ケーブルテレビの光ファイバー工事が中心になってきていた。
工事班は、まだ2班か3班ほど。
僕自身も毎日現場へ出て、朝8時から夕方6時、7時まで働いていた。遅い日は、夜8時や9時になることもあった。
夏場は、ケーブルテレビの仕事だけではない。
電気屋としてエアコンの取り付けも重なった。
現場から帰ってきても、翌日の工事オーダーを確認し、道具をそろえ、場所を調べる。
本当に、仕事、仕事の毎日だった。

光ファイバー工事は、大紀町から外へ広がっていったわけではなかった。
ケーブルテレビ会社の本社がある松阪から始まり、そこから多気、大台、そして大紀町方面へ広がってきた。
僕は以前からケーブルテレビ会社へ足を運び、
「FTTHの工事を、うちにもさせてほしい」
とお願いしていた。
FTTHとは、光ファイバーを各家庭まで直接引き込む方式のことだ。
これから通信設備は、従来の同軸ケーブルから光へ変わっていく。
その流れに入らなければ、会社の先はない。
そう思っていた。
ただ、お願いしたからといって、いきなり多くの仕事を任せてもらえるわけではない。
最初は松阪方面の工事を一件ずつこなし、きちんと仕上げ、また次の現場を任せてもらう。
その繰り返しだった。

松阪方面の工事で最初に困ったのは、現場の場所だった。
大紀町周辺なら、住所を見ればだいたい見当がつく。
しかし、松阪では工事オーダーを見ても、
「ここ、どこなんやろ」
というところから始まった。
初めて聞く町名。
初めて通る道。
そこで、ゼンリンの地図が入ったCD-ROMを手配した。
パソコンで住所を入力し、どの道から入るのか、近くに目印はあるのか、一件ずつ確認した。
その頃にはGoogleマップもあったので、少しずつ現場へ行きやすくなっていた。
それでも、知らない町へ行き、知らない家を探し、初めて会うお客さんの家で工事をするのは大変だった。
場所だけではない。
大紀町から松阪へ出ると、人の雰囲気や求められる対応も少し違った。
地元では、誰かの親戚や知り合いの家へ行くことも多い。
しかし松阪では、ほとんどが初対面だった。
挨拶、説明、家の中での動き方、工事後の確認。
技術だけでなく、新しい地域で信用してもらうための接し方も覚えていった。

仕事が増えると、次に困ったのが人だった。
大紀町は田舎で、人が少ない。
仕事はあるのに、その仕事を任せられる人がいない。
知り合いの娘婿に来てもらい、一から仕事を教えた。
それだけでは足りず、問屋や電気屋、同業者のパナソニック系列店にも、
「こういう工事をしてくれる人、おらんかな」
と聞いて回った。
人探しには本当に苦労した。
見つかったとしても、すぐに一人で現場へ出られるわけではない。
工具の使い方。
光ファイバーの扱い。
テレビやインターネットの接続。
お客さんへの説明。
僕自身も現場へ出ながら、人を教え、次の仕事を取るために動いていた。
仕事量が増えるにつれ、会社の数字も少しずつ変わってきた。
それまでは赤字か、良くてもトントンくらいだった。
ところが、光ファイバー工事が増え、会社に利益が残るようになった。
そこで初めて、
「会社って、こんなに税金を払わなあかんのや」
と驚いた。
利益が出た証拠ではあった。
ただ、うれしいというより、不安の方が大きかった。
この仕事は、いつまで続くのか。
人を増やしても大丈夫なのか。
仕事が減ったらどうするのか。
売上が増えれば、責任も増える。
働いてくれる人の生活も背負うことになる。
それでも、家族や仲間との時間までなくしたくはなかった。
夕方になると家に人が集まり、子どもたちを見てもらいながら、僕は近くで残った仕事をしていた。
子どもたちの声を聞きながら、翌日の地図を調べ、工事オーダーを確認する。
周りの人に助けてもらいながら、仕事と家庭をつないでいた。

会社が苦しい時期を知っていたからこそ、目の前に来た仕事は、できるだけ断りたくなかった。
朝から夜まで現場へ出る。
帰ってから次の日の準備をする。
知らない町へ行き、知らない道を走り、知らない人の家で工事をする。
人を探し、人を教え、仕事を取るために頭を下げる。
あの頃は、楽しかったというより、必死だった。
ただ、その一日一日の積み重ねが、少しずつ会社を前へ進めていった。
僕たちは光ファイバーをつないでいた。
でも振り返れば、つないでいたのは、それだけではなかったのかもしれない。
新しい地域とのつながり。
新しいお客さんとのつながり。
働いてくれる人とのつながり。
松阪から始まった一件一件の工事が、少しずつ地元へ近づき、今へとつながっている。
