DECKY ARCHIVE 第6話
父が教えてくれた、「外の世界を見ろ」という言葉
第5話では、自作パソコンやインターネット、ネット証券など、新しいものに夢中になっていた頃のことを書いた。
振り返ると、僕は昔から新しいものが好きだった。
まだ誰もやっていないこと。
見たことがないもの。
触ったことがないもの。
そんなものを見ると、試さずにはいられない性格だった。
でも、その原点はどこにあったんやろう。
そう考えると、一番最初に思い浮かぶのは父の存在だ。
高校を卒業する頃になると、みんな進路を考え始める。
大学へ進学する友達も多かった。
でも僕は、正直に言うと勉強がそんなに好きではなかった。
だから大学へ行くという選択肢は、最初からほとんど考えていなかった。
それよりも、家業でもある電気の仕事に役立つ技術を身につけたい。
そう思い、専門学校へ進学することを決めた。
選んだのは、日本工学院専門学校だった。
ところが、そこで一つ大きな問題があった。
大阪へ行くか。
東京へ行くか。
その二つの選択肢があった。
大阪には親戚がいる。
何かあっても頼れる人がいるという安心感があった。
一方、東京には知り合いが一人もいない。
右も左も分からない世界だった。
どちらへ行くべきか、本当に悩んだ。
そんな時、父が静かに言った。
「どうせ行くなら、日本の首都を見てこい。」
たった一言だった。
でも、その一言で僕の気持ちは決まった。
父は決して多くを語る人ではなかった。
だけど、ここぞという時には、人の心に残る言葉をくれる人だった。
田舎だけを見て生きるんじゃない。
一度は広い世界を見てこい。
そんな思いが込められていたんだと思う。
僕は昔から父を尊敬していた。
だから、その言葉を素直に受け止めることができた。
東京へ向かう前の日のことは、不思議なくらいあまり覚えていない。
緊張していたのかもしれない。
楽しみだったのかもしれない。
でも、一つだけはっきり覚えていることがある。
父が東京まで送ってくれたことだ。
今になって思えば、父も心配だったはずだ。
知り合いもいない土地へ、まだ若い息子を送り出すんだから。
それでも父は、不安そうな顔は見せなかった。
親というのは、そういうものなんやろう。
専門学校は東京蒲田にあった。
最初は寮生活。
新しい仲間との生活は楽しかった。
でも半年ほどで寮を出て、一人暮らしを始めることにした。
借りたアパートは、港の見える丘公園の裏あたり。
静かな住宅街で、とても住みやすい場所だった。
学校へは電車で通っていたけれど、友達がバイクで通学しているのを見て、「ええなあ」と思った。
結局、僕も二輪免許を取り、バイクで学校へ通うようになった。
今思えば、自由そのものだった。
横浜で暮らして、一番驚いたのは人の多さだった。
田舎では考えられない景色ばかり。
駅へ行っても、人。
電車に乗っても、人。
街を歩いても、人。
何もかもが大きかった。
横浜駅へ行けば、
「これが横浜そごうか!」
テレビや雑誌で見ていた建物が、本当に目の前にある。
それだけで感動した。
川崎へ行けば、
「これがチネチッタか!」
映画の街として有名だった場所を、自分の目で見られた。
休みの日には東京へもよく出かけた。
原宿。
渋谷。
そして109。
「これが109か!」
そう思いながら建物を見上げたことを、今でも覚えている。
中へ入ると、おしゃれな若者ばかり。
当時は少年隊や光GENJIが人気だった頃。
街を歩く人たちまでアイドルのように見えた。
田舎では見たことのないファッション。
見たことのない髪型。
テレビの中の世界が、そのまま目の前に広がっていた。
買い物をするというより、都会という街を見学しているような気分だった。
横浜へ行けば、中華街にもよく遊びに行った。
あの活気ある雰囲気が好きだった。
ある日、実家へのお土産に生餃子を買って帰ることにした。
「これは喜んでもらえるやろ。」
そう思って電車に乗った。
ところが...
時間が経つにつれて、車内にはニンニクの香りが漂い始めた。
「これ、絶対みんな気付いとるやろ...。」
そう思いながら電車に揺られていた。
今思い出しても笑ってしまう。
でも、それも横浜で暮らした大切な思い出の一つだ。
東京と横浜で暮らした約二年間。
僕は専門学校で電気の勉強をしただけではなかった。
広い世界を見た。
たくさんの人を見た。
田舎では出会えなかった景色に出会った。
もし、あの時大阪を選んでいたら。
もし、父があの一言を言わなかったら。
今の僕は、少し違う人生を歩いていたかもしれない。
新しいものが好きになったのも。
Windows95に夢中になったのも。
自作パソコンを組み立てたのも。
インターネットを始めたのも。
ネット証券を始めたのも。
そして今、AIに夢中になっているのも。
その始まりは、父が背中を押してくれたあの日だったような気がする。
「どうせ行くなら、日本の首都を見てこい。」
父は51歳で脳出血により亡くなった。
そして僕も、同じ脳出血を経験した。
父の年齢を越えた今、あの言葉の重みを、若い頃よりずっと深く感じている。
父は僕に、お金を残したわけでもない。
会社を大きくしてくれたわけでもない。
でも、一番大切なものを残してくれた。
それは、
**「外の世界を見る勇気」**だった。
その勇気は、何十年経った今でも、僕の人生を支えてくれている。
