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動物化するポストモダンから考える移民問題


0. 背景

最近の日本では、移民・外国人受け入れの話題が以前よりも明らかに可視化されてきた。実際、在留外国人は増加傾向にあり、政府も「外国人との共生社会の実現」に向けた施策を掲げている一方で、政治的には「日本人ファースト」的な言説や、外国人への不安を強く訴えるポピュリズムも目立つようになっている。

ここで自分が感じる違和感は二つある。

一つは、日本が歴史的にそこまで純血的・固定的な文化共同体だったとは思えないこと。古代から中世にかけても、大陸文化や仏教、近世の限定的な対外交流、近代の西洋制度の移植など、外来要素を選別しつつ島国特性を活かし咀嚼してマージしてきた側面が強い。にもかかわらず、あたかも「穢れていない純粋な日本」がもともと存在していたかのような語りが最近かなり強く出ている気がする。

もう一つは、そうした排外的な言説の伸長を、単に無知や差別意識だけで片付けるのも雑だろうということだ。外国人受け入れの拡大に対して、教育・言語支援・地域ルールの調整・宗教実践への受け皿・行政の相談体制などのマージ設計を、政府や自治体が十分にやれていたのかといえば、怪しいとも受け取れる。政府自身がその点を課題として明示していること自体、そこに未整備があることの裏返しでもある。

この空疎な違和感を言語化したくなったので、本記事では東浩紀の『動物化するポストモダン』の枠組みを借りながら、移民問題と「大きな物語」の関係について考えてみる。


1. 現時点での結論

結論

自分は、現代日本において「純粋な日本」や「外国人は基本的に日本社会を壊す異物である」といった強い大きな物語を再構築するのは、歴史的にも制度的にも無理があると考える。

一方で、ポストモダン的に「大きな物語はもう要らない、あとは各人が好きな断片を組み合わせて生きればよい」と言い切るのも無理があると思う。人間はデータベースだけでは生きられないし、最低限どこかのレイヤには心の拠り所や共同体の規範を必要とする。

したがって、現代の移民問題に対して必要なのは、

  • 純血的な強い物語を退けること

  • 日本史の混成性を前提にすること

  • その上で、文化摩擦や生活実務の問題をデータベース的に整理し、制度で調整すること

  • さらに、強い国民神話ではないが、共存のための弱い共通物語をどう置くかを考えること

だと思う。

ただし、自分もまだこの問いへの正解はわからない。
データベースだけでもやっていけないし、大きな物語だけでもやっていけない。その中間をどう作るのかが今の宿題なのではないか、という問題提起が今の結論である。

結論に対する自己批評

「弱い共通物語」とか「データベース統治」と言うのは簡単だが、それは強い物語ほど人の感情を動かさない。ゆえに、制度論としては正しくても、政治的には弱い。
ここが最大の難所だと思う。


2. 問題意識

自分がこの問題を考えるきっかけになった問いは以下である。

  • 日本は本当に、排他的で純血的な文化共同体だったのか?

  • 移民問題をめぐる排外ポピュリズムは、なぜここまで受け皿を持ちうるのか?

  • 政府や自治体は、文化や経済のマージを十分に設計できていたのか?

  • 大きな物語が失効した時代に、共同体は何を拠り所にすべきなのか?

  • 東浩紀のいうデータベース消費は、この問題に何か示唆を与えるのか?

特に最近感じるのは、移民問題が単なる政策論ではなく、かなり深いレベルで「自分たちは何者か」という問いに接続されていることだ。
だからこのテーマは、経済合理性だけでも、道徳だけでも片付かない。


3. まず、日本は本当に純血的な共同体だったのか

自分はここにかなり強い疑問を持っている。

日本文化は、少なくとも長いスパンで見れば、外来要素を受け入れ、それを咀嚼し、ローカルな文脈に再編集することで醸成されてきた面が大きい。仏教と神道の関係ひとつ取っても、長い期間にわたって習合していたし、明治以前の日本が最初から「純粋神道国家」だったわけでもない。

近世のいわゆる鎖国も、完全なシャットアウトというより、外来要素を選別・統制する仕組みに近かった。明治も、外圧に対抗するため西洋の制度・軍事・技術を大量に取り込みつつ、国内統合の物語としては天皇・神道中心の再編を進めた。つまり実態としてはかなりハイブリッドなのに、自己説明としては純化を行っていた。

そう考えると、「日本はもともと単一で純血だった」という語りは、歴史の実態というより、かなり後から作られたロマンに近い。

ここでいうロマンとは、現実の混成性や矛盾を隠しつつ、共同体を一つの秩序だった物語として提示する形式である。
それ自体が全く悪いとは思わないが、現代の移民問題においてこのロマンをそのまま再起動するのは、相当無理があるように思う。


4. それでもなぜ、強い大きな物語が求められるのか

ここで東浩紀的な話が効いてくる気がする。

ポストモダン以後、人々は大きな物語を失い、データベース的に断片を消費するようになった、とよく言われる。
ここでいうデータベースとは、国民国家や革命や宗教のような一貫した物語ではなく、属性や記号やイメージの集積である。

移民問題で言えば、

  • 外国人犯罪の一部報道

  • 在留資格の断片知識

  • 宗教や生活習慣に関するエピソード

  • SNSで切り取られた動画

  • 人手不足を支える労働力という言説

  • 福祉負担や治安悪化への不安

こうした断片的な属性がデータベースのように蓄積され、人々はそこから各自の「移民像」をレンダリングしているように見える。

つまり多くの人は、移民問題の全体像を理解しているというより、
断片データからシミュラークルを作っている。

  • 危険な外国人

  • かわいそうな外国人労働者

  • 日本経済を支える必要人材

  • 日本文化を壊す異物

  • グローバル社会の担い手

これらは互いに排他的なようでいて、どれも一種のシミュラークルである。

問題は、こうした断片消費の社会では、人が完全に無物語ではいられないことだ。
大きな物語が消えたあとでも、人は小さな物語を動的にレンダリングして生きている。東浩紀の議論を雑に使うなら、我々はデータベースから属性を引き、小さい物語を都度生成している。それは各人の思想によって動的にレンダリングされ自由があるが、同時に不安定さもある。


5. 移民問題における「純血ナルシシズム」の気持ち悪さ

最近の排外ポピュリズムを見ていて、自分が一番気持ち悪いと感じるのは、外国人への反感そのものよりも、「日本は本来穢れていない純粋な共同体である」という文化の純血性へのナルシシズムである。

これは、現実の社会の複雑さや、日本史の混成性を切り捨て、共同体を過度に美化したシミュラークルだと思う。
しかもこのシミュラークルは、経済停滞や行政不信や地域社会の不安といった、本来はもっと制度的に分解して考えるべき問題の受け皿になりやすい。

要するに、

  • 生活が苦しい

  • 地域の秩序が不安

  • 行政が信用できない

  • 将来が見えない

という不安を、

「外国人が増えたからだ」
「純粋な日本が壊されているからだ」

という形で回収してしまうのである。

もちろん、ここで「そんなの全部差別だ」「無知だ」と一蹴するのも雑だと思う。
なぜなら、外国人受け入れの拡大に対して、教育・言語支援・地域ルール・宗教実践・相談体制・雇用の監督などのマージ設計が追いついていないのも事実だからである。受け入れ後の実務が空洞化しているのに、理念だけを唱えれば、そこに不満が噴き出すのは当然でもある。

したがって、排外主義の伸長は、無知だけの問題ではなく、制度設計の弱さの問題でもある。


6. では、データベースを厚くすればよいのか

ここで自分はまだ迷っている。

一つの方向としては、強い大きな物語に対抗するために、事実のデータベースを厚くすることは極めて重要だと思う。

例えば、

  • 在留資格ごとの人数と役割

  • 労働市場への寄与

  • 税・社会保障への関与

  • 犯罪率や違反率の実数

  • 学校や地域における摩擦の具体例

  • どの自治体で何がうまくいったか

  • 日本語教育や通訳支援の不足

  • 宗教実践と公共空間の調整事例

こうした項目を、感情論ではなく蓄積し、可視化し、改善していくことは必要だと思う。
つまり、移民問題を「好き嫌い」や「国民感情」だけでなく、データベース統治のレベルで扱うことである。

ただし、ここで自分が引っかかるのは、
人間は本当にデータベースだけで生きられるのか、という点だ。

データベースは現実処理には向いている。
しかし、それだけでは「自分は何者で、どこに属し、何を大切にすべきか」という問いには答えにくい。
そこにはやはり、何らかの物語が必要になる。


7. 大きな物語も無理、データベースだけも無理、ではどうするか

ここが本題であり、自分の答えがまだ出ていない部分でもある。

自分は、近代への復帰のような形で大きな物語を再構築するのは難しいと思っている。
国民国家、宗教、革命、純血共同体のような強い物語は、人を動員する力がある一方で、どうしても他者との対立や紛争の種になりやすい。

かといって、ポストモダン的に小さい物語やシミュラークルの乱立を全面肯定し、「各人が好きに心の拠り所を作ればいい」とするのも危うい。
それでは社会のルール形成や共同体の維持が難しくなる。

なので、今の自分の仮説としては、心の拠り所をレイヤごとに分けて考える必要があるのではないかと思う。

例えば、

7.1 実務のレイヤ

ここは徹底してデータベース的でよい
制度、統計、支援、監督、教育、通訳、地域運営などは、感情論ではなく項目ごとに処理する

7.2 日常共同体のレイヤ

ここでは弱い共通物語が必要
違う人が同居することを前提にしつつ、最低限のルールと相互の配慮を保つ

7.3 個人の内面のレイヤ

ここでは小さい物語や動的レンダリングをある程度許容する
宗教、趣味、思想、文化的所属感、人生の意味づけは、ある程度ばらついていてよい

7.4 国家や文明のレイヤ

ここに強い大きな物語を置きすぎると危うい
ただし完全に空洞化させると、共同体の求心力が失われる可能性もある

問題は、この4層のバランスをどう取るかである。


8. 現時点での仮説

現代日本に必要なのは、強い純血神話ではなく、
「日本はもともと混成的であり、今後も混成的であり続ける」という歴史理解を前提にしつつ、その混成を支える制度と弱い共通物語を整備することではないかと思う。

ここでいう弱い共通物語とは、例えば、

  • 多様な背景の人がいることは前提である

  • ただし共存は放置ではなく調整によって支える

  • 信教の自由は守る

  • しかし公共空間には公共空間のルールがある

  • 文化差は認める

  • 同時に生活実務では翻訳と相互負担が必要である

といった程度の、あまり熱くはないが現実的な物語である。

これは純血的な大きな物語ほど人を陶酔させない。
しかし、移民問題のように具体的な生活摩擦が伴うテーマに対しては、このくらいの温度感の方が健全なのではないかとも思う。


9. 難所と未解決なところ

9.1 弱い物語は政治的に弱い

強い物語は危険だが、人を動かす
弱い物語は健全だが、人を動かしにくい

9.2 データベース統治は正しいが、心を満たさない

制度としては必要だが、人生の意味や共同体の誇りまでは与えにくい

9.3 小さい物語の乱立は自由だが、社会的な接着剤を弱める

各人が好きに意味づけできることは良いが、それだけだと公共空間のルール形成が難しい

9.4 強い大きな物語は統合をもたらすが、排外主義と相性が良すぎる

特に移民問題のように「内と外」が可視化されるテーマでは、紛争の種になりやすい


10. 総論

自分は、移民問題を見ていて、最近の日本における純血ナルシシズムにかなり強い違和感を持っている。
それは歴史を雑に単純化し、複雑な現実を一つのロマンで塗りつぶすからである。

しかし同時に、そのような物語が伸びる背景には、受け入れ後のマージ設計を制度として十分に整えられていないことや、人々の不安を受け止める別の物語が弱いこともあるのだろうと思う。

だから、自分としては、

  • 強い大きな物語への回帰

  • 完全なデータベース化

  • 小さい物語の無秩序な乱立

のどれか一つを正解だとはまだ言えない。

むしろ今必要なのは、

  • 自分たちが断片的なデータベース消費をしていることを自覚すること

  • 日本の古代からの混成的なコンテキストを継承すること

  • その上で、どのレイヤに何を置くべきかを考えること

なのではないかと思う。

大きな物語だけでもやっていけない。
データベースだけでもやっていけない。
では、その中間をどう設計するのか。

移民問題は、その問いをかなり露骨な形で突きつけてくるテーマだと思う。
本稿はその問題提起として一旦ここに置いておきたい。


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