「誰もわたしのことをわかってくれない」 わたしの生きづらさはどのようにして生まれるか
「わたしは理解されていない」、「誰もわたしのことをわかってくれない」、そのような思いは多くの人が味わったことがあると思います。このような思いは、当然のことながら「わたしの生きづらさ」につながっていきます。ふつう、わたし自身がとらえている「わたし」と、周りの人との関係の中にある「わたし」とが、ズレてしまっている時に、このような思いが生まれてきます。今回は、そのようなズレがどのようにして生まれてくるかということを考えることで、「わたしの生きづらさがどのようにして生まれてくるか」についても考えてみたいと思います。
わたしを一番よく知っているのは誰か
「わたしのこと(わたしがどういう人間か)を一番よく知っているのはわたし自身だ」と誰もが思っています。ところが、実際の生活の中では、そうではないと思うことが時折、起きてきます。自分よりも友人の方が、「わたしがどういう人間か」をよく知っていると気づくようなことが実際に起きるのです。たとえば、「オレ、つまんない奴だよな。」と落ち込んでいる時に、一番仲のいい友だちが、「そんなことないよ。そういうところも含めて、お前は(お前が思っている以上に)おもしろい奴だよ。」みたいなことを言われることがあります。この場合、「本当のわたし」はどちらなのでしょうか。皆さんはどう思いますか。わたしは、友だちの言ったことの方がおそらく「正しい」のだろうと思います。このようなことから考えれば、「わたしのことを一番よく知っているのはわたし自身だ」と思うのは、たぶん思い込みです。むしろ、わたしがどういう人間かは、意外と周りの人の方がよくわかっているものなのだと思います。
なぜ、そういう思いや感情が起きたのかは誰にもわからない
人間は、鏡を使わなければ、自分の顔に汚れがついていることさえわからないのです。「いや、体はそうかもしれないが、心は違うでしょう。」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ちょっと考えると、自分の思っていることは、自分にしかわからないので、自分の心については自分が一番よくわかっていると思いがちです。確かに、わたしが今、思っていることをぴたりと当てることのできる人はいません。たとえ、当たることがあったとしても、それはその人の「想像」が当たったにすぎません。そういう意味では、わたしの思っていることは、わたしが一番よくわかっているというのは事実です。しかし、「わたしがどういう人間か」ということは、よく考えて見れば、そこで問題になっているのは、周りの人にとって自分がどういう人間なのかということです。「わたしにとってわたしがどういう人間か」、「わたしはわたしをどう思っているのか」という問いは、そもそも問いとしての意味をあまり持ちません。どう思おうがそんなことは、わたしだけの問題にすぎないからです。
もしも、「(他人が)わたしを理解する(しない)」、「わたしをわかる(わからない)」ということが問題になっていて、「なぜわたしがこういう思いをもったか、こういう行動をしたか、そのことを、わたしと同じように理解しろ(わかれ)」ということであれば、そもそもそういうことは最初から不可能です。さらに細かいことを言えば、自分自身の思いや行動であっても、今、どうして自分がこのような「思いや感情や考え」を抱いたのかを、きちんと説明できる人は、実はほとんどいません。「高校生のための人権入門」の第5回で「怒り」について書きましたが、怒りに限らず、すべての感情や考えは、いつのまにかわたしの中にわき起こってくるものなのです。その意味では、われわれが「感じ、考えている」のではなく、なにものかによって、そのように「感じ、考えさせられている」(わたしは受け身)と言った方が実情に近いとわたしは思います。感情や思いは、いやおうなくわたしを襲ってくるものです。そう考えると、「わたしは理解されていない」、「誰もわたしのことをわかってくれない」という思いに込められているのは、その言葉が示しているようなわたしに対する「知的な理解や正確な把握」ではなく(そんなことはもともと不可能です)、実はもっと別なことだということになります。
「空っぽの器(意識)」の下で煮えたぎっているもの
「わたしとは、どんな人間だろう」と考えている時のわたしは、言わば、「空っぽの器」です。「空っぽの器」の中をいくら探してみても、「(本当の)わたし」は出てきません。この「空っぽの器」とは、心理学や哲学で、意識と呼ばれるものです。意識には中身はありません。意識は対象をとらえ、それがどういうものかを判断するものだからです。このような「空っぽの器(意識や認識)」の中からは、先ほど述べたような「わたしは理解されていない」、「誰もわたしのことをわかってくれない」という切実なつらい思いは出てきません。では、それはどこから出てくるのでしょうか。
実は、「空っぽの器(意識)」の下で煮えたぎっている、燃えさかっているものがあるのです。それは、「自分はこうでなければならない」という衝動(自分を駆り立てる激しい力)、熱、エネルギー、マグマのようなものです。重要なことは、「自分はこうでなければならない」の「こう」の中身、内容は、言葉にはならないものだということです。意識はその「こう」の内容を、ある程度、言葉にしてとらえることはできますが(たとえば、「人に認められる」とか、「人に愛される」とかです)、それは「こう」のごく一部であり、言葉にしてしまうと、「こう」の持っているもっとも重要なもの(熱、エネルギー、マグマのようなもの)は取りこぼされてしまいます。実は、「自分はこうでなければならない」という思い(衝動、切迫)の中の一番重要な部分は、「こう」の中身にではなくその後の「でなければならない」の方にあるからです。
この「空っぽの器(意識)」の下で煮えたぎっているものとはなんでしょうか。それは言葉にならない衝動ですから、簡単に言い表すことは不可能ですが、あえて、ここでわかりやすく、ひと言で言ってしまえば、それは「自己愛」です。「高校生のための人権入門」の第21回でふれた、スピノザの言う「コナトゥス」は、人間においては「自己愛」という形をとるのだと、とりあえずここではまとめておきたいと思います。つまり、ここで言う「自己愛」は、「わたしが生きていること」と絶対に切り離せない、「わたしが生きていること」自体とほとんど同じこと(もの)です。
「自己愛」をめぐる戦い
「自己愛」が満たされない時、人は言葉にできない「いたたまれない思い(生きていられない思い)」に駆られます。「いたたまれない思い」は、屈辱感や、みじめさ、いら立ちに姿を変え、わたしをジリジリと焦がしたり、時によっては、一気に焼き尽くします。これが多くの場合、怒りとなって爆発したり、憎しみに姿を変えて、自分に屈辱を与えた相手を苦しめることで、自分の屈辱感や、みじめさ、いら立ちをやわらげようとしたりするのです。このようなことが、典型的に起きるのが、パワーハラスメントの加害者においてです。(くわしくは、「高校生のための人権入門」の第3回をご覧ください。)
しかし、「自己愛」が満たされない時の屈辱感や、みじめさ、いら立ちが襲いかかるのは、パワーハラスメントの加害者にだけではありません。実は、被害者にも同じようなことが起きます。相手(加害者)が自分(被害者)に理不尽なことをしてくることへの怒りの背景には、必ず、自分のあり方が認められていないこと(自己愛を否定されたこと)の理不尽さへの屈辱感や、みじめさ、いら立ちがあります。もちろん、加害者の暴言や暴力、嫌がらせは、決して許されることではありませんが、被害者が加害者に感じる怒りは、「人権が尊重されていないことへの正義感」からの怒りというよりは、相手がしていること(暴言や暴力や嫌がらせ等)が自分の「自己愛」を傷つけていることから生まれた屈辱感やみじめさが、怒りに姿を変えたものです。
パワーハラスメントの加害者と被害者とが、それぞれ「正しさ」を持っていて、そのふたつの正しさは決して交わらないということを「高校生のための人権入門」第22回でお話しましたが、なぜこのふたつの正しさが交わらないのか(つまり、実際には不可能ではない現実的な妥協点を見いだせないのか)の理由がここにあります。双方は、一見、自分の正しさのために戦っているように見えますが、実は自分の「正しさ」を相手に認めさせることに、自分の「自己愛」の存立(生き死に)をかけているのです。そのため、どちらも決して、妥協したり譲ったりすることはできないのです。妥協することは、自分の「自己愛(つまり、自分の生きていること)」を否定されることだからです。
「自分はこうでなければならない」が生む生きづらさ
繰り返しますが、「自分はこうでなければならない」の「こう」の中身は実はあいまいです。重要なのは、「なければならない」という言葉にならない衝動、切迫の方だからです。ですから、パワーハラスメントが解決する(現実的な妥協点に双方が合意する)のは、双方の「自己愛」が、自分たちよりも権威のあるもの(強い立場のもの)によって、充分に認められた時ということになります。
自己愛の現れとしての、「自分はこう(ああ)でなければならない」=「自分はああ(こう)であってはならない」という思いは、多くの場合、さまざまな生きづらさを生みます。最初にあげた「わたしは理解されていない」、「誰もわたしのことをわかってくれない」という思いもそのひとつです。このような場合、「それでは、理解されていないあなたはどういう人間なのか」、「あなたのどういうところが理解されていないのか」と尋ねても、尋ねた方が満足できるような答えはふつう返ってきません。もちろん、「わたしはもっと繊細な人間なんだ」とか、「わたしはもっと有能な人間なんだ」とか、「わたしは、ほめてもらって伸びるタイプなんだ」とか、「結果が出ないのは、わたしのせいではない」とか、いろいろな答えは返ってくるでしょうが、それらは尋ねた方が満足のいくような答えではありません。結果として、尋ねた方は、「結局、これはこの人のわがまま、甘えなんじゃないか」と思ってしまうのです。「あれこれ言ってはいるけれど、結局、もっと自分を大事にしてくれと言ってるだけじゃないか」と感じてしまうのです。確かに、はたから見れば、当人の言っていることは、「自分を大事にしてくれと言ってるだけ」に見えてしまいますが、もともと「誰もわたしのことをわかってくれない」という思いがその人の「自己愛」から生まれてきたものである以上、それがはたからは、「自分を大事にしてくれと言ってるだけ」に思えるのも、ある意味、当然のことなのです。
おわりに
ここまでお読みになった方の中には、「なんだお前の言っていることは、フロイトが言っていることのパクリじゃないか」と思われた方もいらっしゃるかと思います。「『空っぽの器』がフロイトの言う『自我』で、『自分はこうでなければならない』がフロイトの『超自我』だね。自己愛は、もちろんフロイトが言う『ナルシシズム』のことだ。でも、『ぐらぐら煮えたぎる、言葉にならない衝動』という言い方から考えると、あなたは『超自我』と『エス』を混同しているようだね。」とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。わたしは、今まで、ジークムント・フロイト以上に「わたし(自我)」についてよく考えた人はいないと思っていますので、「わたし(自我)」について書く時は、必ずフロイトの考えが出てきてしまいます。ですから、わたしの書いたことをフロイトのパクリと考えていただいてかまいませんが、一方で、あえて「自我」とか、「超自我」とかの言葉は使わなかったこと、また、「超自我」と「エス」をあえて区別しなかったことも、理由があってのことなのだということは、ご理解いただければと思います。
今回、「わたしの生きづらさ」について考える中で、「わたし探し」はなぜ失敗するかということを考えました。今回は、そのことにはふれませんでしたので、次回あたりに「わたし探し」についても、書いてみたいと思っています。
