自己愛とどうつき合うか 〜自分を愛せないのはなぜか〜
「本当の自分とはなにか」ということを考えている中で、生きるということは、「自分の中の自己愛と、どうつき合っていくか」ということではないかと思うようになりました。
「自己愛」は、その人の「生きる力」の根源
人が「本当の自分」を追い求めてしまうのも、人が「毒親」や「繊細さん」という「負の物語」につかまってしまうのも、たぶん、「自己愛」のせいなのです。「自己愛」とは、簡単に説明することはできませんが、あえて言えば人の「自分を存続させよう(生きよう)」という根源的な欲望です。そういう意味で、「自己愛」は「生きる力」の根源です。ただ、そうはいっても漠然としすぎるので、今回のお話に関係する面だけに限って言ってしまえば、「自己愛」とは、人の中に必ずある「自分に満足したい」「自分をほめてやりたい」という根深い「欲求」です。この欲求なしでは、人は生きていけません。
「自分を愛せない」ことがつらいのは、「自己愛」が満たされていないから
「自己愛」は人の「生きる力」の根源だから、だれの中にもあると書くと、「ウソだ。わたしは自分を愛せなくて困っているのに」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、「自分を愛せない」というのは、「自己愛」が持てないということではなくて、「自己愛」という欲求が満たされていない状態(「愛したいのに、愛せない」状態)です。「自分を愛せない」「自分を好きになれない」のがつらいのは、「自己愛」が満たされない(「わたしに満足したいのに、今のわたしにはそれができない」)からです。
人間の「自己愛」の特徴
おそらくは、動物にも人間の「自己愛」に似たものはあるのだろうと思いますが、動物の場合は、ほかのもの(動物)が関係しないので「自体愛」とでも呼んだ方がいいかもしれません。「自体愛」はすぐさま、生きること(自分を存続させること)につながります。一方で人間の場合は、動物とは違って「人がわたしをどう思っているか」が、わたしの「自己愛」にきわめて深く関わってきます。人は他者(自分以外の人)を介してでなければ、自分を愛すること(自分に満足する)ができないからです。
「自己愛(ナルシシズム)」には、他者が必要
「自己愛(ナルシシズム)」という言葉は、美青年のナルキッソス(ナルシス)が、水面に映った自分の美しい顔に心をとらえられ、恋してしまったというギリシア神話から生まれた言葉です。この話でわたしがなるほどと思うことは、「自己愛」は自分が映る水面(自分以外のもの)がなければ成り立たないということです。ただ、自分の顔や姿(外見)についてならば、水面や鏡でよいわけですが、鏡に映らない「わたし(の内面等)」については、何がわたしを映す「鏡」になるのでしょうか。答えはむずかしくありません。それは、自分以外の人(他者)です。人は、自分を見ている他者の目をとおしてしか、自分(の内面等)を見たり知ったりすることができないし、自分を愛することもできないのです。だからこそ、わたしは人が自分をどう見ているかということ(人の目)を、これほど気にするのです。(ちなみに、「自意識(自己意識)」というものは、他者の目を自分の中に取り込んで、はじめて成立します。)
「自分のしたことが、人に喜んでもらえるとうれしい」
精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、子どもは、親の欲望(欲動)を自分の欲望(欲動)とするのだということを言いました。子どもは、そうしなければ欲望(欲動)を「何か対象をもったもの」にすることができないし、それを「自分のもの」とすることができないのです。ここでフロイトの言っていることを、あえて常識的な言い方にすれば、「親が期待するような人に、子どもはなりたいと思う」「子どもは親の期待に応えることを生きがいにする」ということになります。逆の言い方をすれば、「親の期待を感じることができない子は、自分がどうしたいのか、どうすればいいのかわからない」ということです。
親は、自身の「自己愛」にもとづく「わたしは親としてこうでありたい」=「子にはわたしに対してこうであってほしい」という思い(欲求)を持っています。それを親の中に見た子どもは、それを少しずつ自分の思い(「わたしはこうでありたい」)としていくのです。やがて、人はおとなになっていく過程で、次々に自分の「鏡」とする人(友だち、恋人、職場の人たち等)をふやしていき、その人たちの「願い(欲求)」を自分の「願い(欲求)」としていきます。
このようなことを、フロイトの考えを引き継いだジャック・ラカンは「欲望は、他者の欲望だ」と言いました。「わたしが、何かをほしいと思うのは、他の人たちがそれをほしがっているからだ」というわけです。もちろんこのような心の働きは、悪いことばかりではありません。「自分のしたことが、人に喜んでもらえるとうれしい」という、人にとって大切な感情のおおもとには、このような心の働きがあるからです。(ちなみにラカンは、子どもが親などの他者をとおして「わたし(自我)」をつくり上げる過程を「鏡像段階」と呼びました。)
「鏡に映ったわたし」と「実在のわたし」とのズレ
親や周りの人たちの欲求(「鏡」に映った「わたしの欲求(夢や義務)」)を、自分の欲求として、トラブルなく生きていられるうちは問題ありません。「わたしはいい人(いい子)だ」と自分で思い、わたしの「自己愛」は満たされているからです。しかし、不登校や進路上の失敗や欠勤等で、親や周りの人の期待や要求に応えられなくなった時に、人はそれまでの自分の生き方に疑問や苦痛や怒りを感じるようになります。「自分はこんなにいい人(いい子)でずっとやってきたのに、なんでこんなつらい目にあわなきゃいけないんだ」と思い、自分の人生に裏切られたように感じるのです。そんな時、人は、「ここにいるわたしは本当のわたしではない」「わたしは自分の思いどおりに生きていない」と感じます。しかし、それは実は「鏡に映ったわたし(いい人)」と「実在のわたし(いい人になれない、なりたくないわたし)」のズレやギャップから来る悲鳴なのです。
「毒親」や「繊細さん」という「負の物語」が入り込む
人が「毒親」や「繊細さん」という「負の物語」につかまってしまうのは、こんな時です。どちらの「物語」も、つらい思いをしているあなたに、「あなたは悪くない」と言い、「悪いのは、親だ」「悪いのは、あなたの特性を理解しない周りの人たちだ」と言います。ですから、「毒親」や「繊細さん」という「物語」を信じ、受け入れれば、一時的にあなたの「自己愛(わたしはいい人だ)」は回復します。しかし、それはあくまで一時的です。
「毒親」や「繊細さん」というあなたが受け入れた「物語」によって、実際に親や周りの人を反省させて生き方を変えさせよう(「悪いのはあなたたちだから直しなさい」)としても、たいていの場合、親は変わらず、周りの人も変わりません。親も周りの人も、同じように「自己愛(わたしは正しい)」を持っているので、自分の過ちを認めて直せと言われても、そうやすやすとは受け入れません。結果として、「毒親」や「繊細さん」という「物語」を信じた人の「自己愛(わたしは悪くない)」は、さらに傷つきます。
「自分の思いどおりに生きられない」ことは、当たり前?
ここで「自分の思いどおりに生きられない」ことを、別の角度から考えてみます。人が「自分の思いどおりに生きられない」こと自体は、他人の身の上のこと(一般論)として考えれば、むしろ当たり前のことに思えます。人は、だれもが現実にはさまざまな限界(性格や能力がもたらす限界、立場がもたらす限界、経済的な限界等)の中に生きているからです。
しかし、いざそれが自分の身に起きると、頭ではわかっていても、気持ちとしてはどうしても納得できません。自分のことである場合は、「自己愛」がそこに強く働くからです。「おかしい。なぜ、わたしは思いどおりに生きられないのだろう。どう考えても、これおかしい」と思った時に、その原因(責め)を持って行く先(責められるべき人)は、ふたつしかありません。ひとつは自分、ひとつは他人(親や周りの人たち)です。
ただ、もともとこの「なぜ、思いどおりに生きられないのだろう」という問いは、わたしの「自己愛(自分に満足したい)」から生まれていますから、ふつうわたしは「自分が悪い、間違っていた」という答えを受け入れることはできません。「自己愛」がそれを許しません。結果として、答えは残ったもうひとつ、「他者(親や周りの人)が悪い」ということになります。そして、このような思いは、「毒親」や「繊細さん」という「負の物語」を、いともたやすく引き寄せます。
本当は、だれもわるくはない
わたしの考えでは、本当は「親」も、「わたし」も、「周りの人」も、だれもわるくはない(責められるべきではない)のです。では、「なぜ、わたしは思いどおりに生きられないのだろう」と感じる時のつらさ、苦しさが生まれる本当の原因・理由はどこにあるのでしょうか。本当の理由は、この問いそのものに含まれています。この問いの中の「思いどおり」の「思い」の中身は、本来はわたし自身から生まれたものではなく、わたしの「鏡」である他者の「欲望」「夢」「義務」だからです。それを、わたしは今までずっと自分(わたし)の「欲望」「夢」「義務」と勘違いしてきたのです。そんなことが起きたのは、人が「自分」を手に入れ、「自分」をつくり上げていく際、他者を「鏡」とするしかないからです。そして、このこと自体はだれの「責任(過ち)」でもありません。たとえとしては大変おそまつですが、ちょうど、寒い土地に行って、手袋を持ち合わせていなかった人が、その土地の人の使っていた手袋を譲ってもらい、使っているうちに指が長いので指先に穴が開いてしまったようなものです。
「洗面台の鏡に映ったわたし」と「ここに立っている実在のわたし」が、必ず違っている(左右が逆である等の)ように、「鏡に映ったわたしの欲望、夢、義務(「人の手袋」)」と「実在のわたしの欲望、夢、義務(「わたしの手」)」とは必ずズレています。その勘違い、ズレに気づかない限り、人は人生のどこかで「わたしは思いどおりに生きられていない(手袋に穴が開いた)」「こんな自分は嫌いだ(こんな手袋はダメだ)」と感じ、苦しむことになります。
「虚構のわたし」と「虚構のわたしの思い」
そのような苦しみの中で必要なことは、その苦しみの原因や解決を、運命や霊的な力(スピリチュアル系)に求めたり、その苦しみの責任や解決を、親や周りの人に持っていったりすることではありません。一度立ち止まって、「わたし」とはどのような人なのか、わたしの「思い(欲望、願い)」とはどういうものなのかをよく考えてみることです。今まで書いてきたように、「わたし」も、「わたしの思い」も、あなたがいつのまにか自分の中につくり上げていた「虚構のわたし」、「虚構のわたしの思い」なのです。だからこそ、それらと実際のあなた(実在のあなた)との間に、しだいに埋めがたいズレやギャプが生まれて、今、あなたを苦しめているのです。
加害者を批判してはいけないということではない
誤解のないように書いておきますが、わたしは虐待を受けたり、パワーハラスメントを受けたりした人が、加害者を批判してはいけないということを言っているわけではありません。人権侵害をした加害者は、社会的にその責任を追及されなければなりません。ただ、わたしが言いたいことは、たとえそれを目指して必死になっても、実際には、加害者が心から反省し、あなたに謝罪して、あなたの「自己愛」が取り戻されることは、まずないということです。
「自分を愛せない」ということとは
多くの人は、「自分の思うとおりに生きられなければ、幸せではない」と思っています。しかし、自分の思い(欲求)は他者の思い(欲求)のコピーであったことに気づけば、実は「自分の思うとおりに生きられなければ、幸せではない」の中身は、たいていの場合、「人の期待に応えられなければ、自分は幸せではない」ということと同じなのです。
同様に、「自分を愛せない」、「自分を好きになれない」ということの中身は、「人に愛してもらえない自分をわたしは愛せない」、「人の期待に応えられないわたしを、わたしはどうしても好きになれない」ということにほかなりません。
「自己愛」を犠牲にする「正しさ」など、あってはならない
「自己愛」は、ふつう、その人の中でこのような「自分の思いどおりに生きたい=人の期待に応えたい」という形をとり、その人に「生きる意味(生きがい)」を与えています。しかし、一方ではその人の生き方を、いつのまにか「他者(親や仲間や組織や国家など)」の支配下に置きます。
重要なことは、ひとりの人(個としてのわたし)を超えた「正しさ」などというものは、ないということです。わたしの生きる力の源は「自己愛」です。「自己愛」は「自分を存続させよう(生きよう)」という根源的な欲望です。それを否定できるような「正しさ」は、もともとこの世に存在しません。
他者(親や仲間や組織や国家など)の「自己愛」のために、自分(わたし)の「自己愛」を犠牲にするなどということは、あってはならないことです。わたしに「自己犠牲」を要求するような「正しさ」は、いかなる場合にも拒否していいのです。
できないことは、「できません」と言っていいのです。嫌なことは、「嫌です」と言っていいのです。それが、「自分を愛する=生きる」ということです。
