言葉のもっとも奥深い秘密 〜「正しさ」は、その不在によって人を動かす〜
以前、「正しさ(正義)」はそれが現実には実現不可能でありながら、人を強烈に支配するということを書きました。(くわしくは、「『正しさ』についての思考実験が意味すること」などをご覧ください。)実は、このことは単に「正しさ(正義)」にとどまらず、言葉そのものの本質にかかわることです。
「花がある」という言葉は、花の「不在」と切り離せない
たとえば、「花がある」という言葉は、いくつもの「ない(不在)」を含んでいます。テーブルの上に白い花が置いてあって、それを見て「(ああ、ここに)花がある」と言った場合、音として発せられた言葉の「花」は、目の前に実際にそこに「ある」生きた白い花とは違うものです。確かにその時の「花がある」という言葉は、目の前にある白い花のことを言っているのですが、声として発せられた言葉(音声)の「花」には、もちろん色も形も重さもありません。あたり前のことですが、言葉の「花」と、テーブルの上にある花とは、別のものです。「花がある」と言いながら、その言葉の中には、現実の花は「ない」のです。くだらない屁理屈を言っているように聞こえるかもしれませんが、これは言葉というものの本質を考える上で、非常に重要なことです。ひと言でいえば、「言葉とは、『不在(非存在)』」なのです。
なぜ、見えない花を「ある」と言えるのか
言葉の中の「花」は、現実の花ではない。つまり言葉の中に、現実の花は「ない(不在だ)」からこそ、たとえば、わたしがテーブルの前から立ち去って、自分の前にその白い花がなくても、先ほど見た「花」は、今もあそこにある(だろう)という意味で、あそこのテーブルには「花がある」と言うことができるのです。現実には、わたしが立ち去った後、すぐにだれかがその花をどこかに持ち去っていても、わたしはあそこには今でも「花がある」と言う(思う)ことができるのです。よく考えてみると、これはずいぶん不思議なことです。
言葉は、本質的に「嘘」なのだ
われわれはふだん、言葉は一対一対応で(つまりしっかりへその緒のようなもので)現実に結びついているように思っていますが、実はそんなことはないのです。言葉は情報伝達の手段だというような考え方が今の日本を支配し、正しい情報伝達ができることが日本語の能力だと考えられています。しかし、そのような考え方は、言葉とものごとを、一対一対応で(ズレずに)つなげることができるというとんでもない勘違いにもとづいています。
言葉は情報伝達の手段だと考える人たちは、小説や詩を国語の教科書に載せることに否定的です。小説や詩の言葉が「表現」であって、情報伝達の手段ではないこと、小説や詩の言葉が、そもそも一対一対応で一義的に理解することはできないものだということがわからないからです。
世の中には、嘘は絶対にいけないと考える人もいます。しかし、そもそも言葉の本質を考えれば、「言葉とは、本質的に『嘘(現実とはズレているもの)』」であり、「言葉を使っている人を、常に裏切るもの(言葉を書いたとたんに、これは違うと思って書き換えたくなるもの)」なのです。
言葉を使えるとは、嘘をつけること
「花」という言葉も、「ある」という言葉も、それぞれ「花」や「ある」ということを意味していながら、それぞれの言葉の裏側に「ない(不在)」を必ず含んでいます。だからこそ、わたしは目の前にない(見えない)花について、現実には、すでにその花はないかもしれないにも関わらず、あそこのテーブルには「花がある」と言うことができるのです。子どもの嘘は二歳くらいから始まるそうですが、おとなが「人は二歳で嘘をつくのか」などど嘆く必要はありません。「言葉を使う(使える)とは、嘘をつく(つける)ということ」です。「言葉とは、本質的に嘘」なのです。
今述べたこと以外にも、言葉には「ない(不在)」や「ない(否定)」が幾重にもまとわりついています。たとえば、「花」で「ない」もの(たとえば、木や石)と「花」で「ある」ものの区別がなければ、「花がある」「(あれは)花だ」という言葉自体が成り立ちません。「花」という言葉につきまとう「ない(不在や否定)」は、これ以外にもいろいろ考えることができます。
言葉では、「ある」の前に「ない」がある
言葉が言葉として「生きて意味を持つ」のは、言葉がつねに「死(不在や否定)」を含んでいるからです。よく考えてみると、「ある(有る、在る)」という言葉は、言わばその前に「ない(無い)」があるからこそ「ある」という意味を持つのであって、逆ではありません。もし、「ある」ものを「ある」と言い表すだけでよければ、そもそも言葉は成り立たなかったでしょう。何かを見た時に、「あああっ」とか「ううっ」とかいうようなうめき声を上げるだけでよかったはずです。つまり、言葉を持たなかったヒト(もし、そのようなものがいたとすれば)には、ただあるものだけがあったのです。そのようなヒトにとっては、「生」だけがあるのであって、「死」はそもそもありません。つまり、人が「花がある」と言うためには、「花でないもの(たとえば、木とか石)」や、「(なにかが)ない」ということがどういうことか、その人にまずわかっていなければなりません。
もちろん、言葉が常に「ない(不在や否定)」をはらんでいるということは、「花」とか、「ある」という語に限られることではなく、「カッコウが鳴いている」とか「彼はパスタが好きだ」など、すべての言葉の表現(言表)について言えることです。
現実の花を「殺す」ことから、「花」という言葉が生まれる
言葉としての「花」は、生きている花の「不在(ない)」がなければ成り立ちません。いわば、生きている現実の白い花を「殺す」ことから、「花」という言葉が成り立つのです。言葉が言葉として「生きた」意味を持つのは、言葉が常に「死(否定や不在)」を含んでいるからです。
「花!」とわたしが言うと…
十九世紀のフランスの詩人、ステファヌ・マラルメは『詩の危機』という文章の中で、次のような有名な言葉を残しています。
「花!」とわたしが言う。すると、わたしの声は、ありとあらゆる(花の)輪郭を忘却の彼方に追いやり、その彼方に、知られた(花の)萼(がく)とは別の何ものかとして、あらゆる花束に不在の、甘美な(花の)観念(イデー)そのものが、音楽的に立ち起こってくる。(試訳、ステファヌ・マラルメ『詩の危機』より)
Je dis : une fleur ! et, hors de l’oubli où ma voix relègue aucun contour, en tant que quelque chose d’autre que les calices sus, musicalement se lève, idée même et suave, l’absente de tous bouquets. (Stéphane Mallarmé, Crise de vers)
ここでマラルメの言っていることは、「わたしが『花!』という言葉を口にすると、(それを言ったわたしや、それを聞いた人の中では)花は具体的な形を失い、現実のどんな花とも違う「花」の観念(イデー)が、まるで音楽のように、わたしやそれを聞いた人の中に思い浮かべられる」ということでしょう。そして、「これが詩の言葉の働き、すなわち詩の意味(価値)なのだ」というようなことを彼は言いたいのだと思います。つまり、詩とは「この世のものではないもの」を、言葉で立ち上がらせる創造行為なのであり、それが詩や文学表現の意味(価値)なのだということでしょう。
「花」という「言葉」は、現実の花の「不在」と結びついています。しかし、いや、だからこそ、詩の言葉は音楽のように立ち起こり、人を魅惑できるのです。
「正しさ」という言葉は、「正しさ」の「不在」から生まれた
「花」という言葉は、おそらくこの世に実在するさまざまな花から生まれてきたものでしょう。ですから、「花とはなにか」と聞かれた時、われわれは目の目にある白いバラの花を指差して、「これが花だ」と言うことができます。しかし、すべての言葉がそうであるわけではありません。
「正しさ」や「正義」という言葉は、それが現実には「ない(存在しない)」ことから生まれてきたものです。このことは、「自由」という言葉で考えてみると、わかりやすいと思います。「自由」という言葉は、現実に人を苦しめる拘束や束縛があり、その拘束や束縛からの解放として生まれた言葉です。「自由をわれらに」という言葉がよくそれをあらわしています。今、ここにないからこそ、求められるのが「自由」です。同じように、「平和」という言葉は現実の戦争などから生まれ、「平等」「人権(尊重)」という言葉は、現実の差別や迫害から生まれたのです。「正しさ(正義)」という言葉(観念)もまた、「正しさ(正義)」のこの世における「不在」から生まれてきたものです。
完全な「正しさ」が実現した状況は、だれも思い描けない
その証拠に、われわれは「正しさ(正義)」が実現できていない状況は、いくらでも実例として挙げることができますが、完全な「正しさ(正義)」が実現した状況を、これがそうだとして思い描くことはできません。われわれが思い描くことができるのは、今、現にある「不正」がなくなった状態だけです。その「不正」がなくなった状態が、たとえ実現できても、必ず次の「不正(「『正しさ』の不在)」が立ち現れてきます。この世が「苦の娑婆(くのしゃば)」であることは、だれでもわかりますが、では、すべての苦から解き放たれた「極楽浄土」が、どのようなものなのかは、実はだれにも具体的には思い描けないのと同じです。同じことが、「自由」や「平和」や「平等」や「人権(尊重)」についても言えます。
「正しさ」の「不在」への不満や怒りが、人を駆り立てる
問題は、現実における「正しさ」の「不在」への不満や怒りが、「自由」や「平和」や「平等」や「人権(尊重)」という「正しさ」を表す言葉と結びつき、やがて、そのような「正しさ(正義)」が人を駆り立てて、時によって自分や他の人を死にまで駆り立てることがあるということです。「平和のための戦争」とか、「自由のためのテロ」というような考え方です。(自分の生きている世界に「正しさ(正義)」の実現を目指す行為が、なぜ悲惨な出来事を引き起こすのかについては、「人は天使であろうとすると獣(けもの)になる」などをご覧ください。)
本来、「正しさ」はこの世に「ない」から希求されるものであり、この世には実現できないものです。だれかがこの世に「正しさ」を実現したと思った瞬間に、その「正しい」状態によって束縛されているとか、自由を奪われていると感じる人が必ず出てくるからです。「正しさ」は、現実における「(正しさの)不在(=この世界はおかしい)」から生まれた言葉であるために、結果として人を駆り立て、自分や相手を責め立てる言葉になるのです。
