高校生のための人権入門(13) 学校でのいじめについて(子どもの人権(2))
はじめに
学校でのいじめについて考えることは、職場でのパワーハラスメントについて考えることよりもむずかしい気がします。それは、いじめの方がパワーハラスメントに比べて、より複雑で、はっきりさせにくいものを含んでいるからです。
現在、学校で起きているさまざまないじめについて考えてみると、いじめは学校の中で「必然的に」起きているようにわたしには思えます。いじめのない学校や学級はありませんし、いじめを完全になくすことは、まず不可能だろうと感じられます。しかし、そのような確信が一方にありながら、それでは「なぜいじめは起きるのか」、「学校という組織や子どもたちの人間関係の、どこからいじめは、必然的に生じてくるのか」、このような問いにきちんと答えることは、非常にむずかしいことです。「なぜいじめは起きるのか」、それがわかれば、なくすことはできなくても、いじめを減らしたり、軽い段階で終わらせたりすることはできるはずなのですが、残念ながらそのようないじめに関する考察には、わたしはまだお目にかかったことがありません。これから書くことは、あくまでそのような「求められている考察」への一歩として、今、わたしが考えていることにすぎません。
パワーハラスメントといじめの共通点と違い
いじめについて話をすると、必ず、「人間には他人が苦しむのを見て喜ぶようなところが、本性としてある。だから、いじめはなくならない」というような主張をする人が出てきます。一見、先ほどわたしが述べたことは、そのような主張と同じだと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、わたしは、「いじめは人の本性だ」とは考えません。そのような主張は、あれこれ言っても結局のところ、弱い立場の人(この場合は、いじめを受けている被害者)の苦しみを切り捨てて、現状を容認する「強い立場」の発想にすぎないからです。
学校におけるいじめは、加害者や被害者の個々の特性だけでは、説明できないものを含んでいます。学校という「組織や秩序」、子どもがつくり上げている「集団」が引き起こしている部分を、絶対に無視できないからです。学校のいじめについては、第3回でお話しした「職場のパワーハラスメント」と比べてみると、その違いと共通点がよくわかると思います。どちらにも、強い立場と弱い立場、つまり力関係がありますが、パワーハラスメントの場合はその力関係は誰からも比較的わかりやすいものです。それは、上司と部下という関係であったり、先輩と後輩という関係であったり、業績をあげている人とそうでない人というような関係です。その背後には、職場が決めている職制や職場の目的(企業利益等)に対する貢献度の差などがあります。ところが、学校のいじめの場合、なぜあの子が「強い(攻撃する)立場」になるのか、なぜあの子が「弱い(攻撃される)立場」になるのかは、外からはよくわからないことが多いのです。なぜ、あの子が動くとほかの子もついていくのか、なぜあの子はのけ者のような立場になるのか、おとなからはよくわからない面が多いのです。ある子がクラスの中で一番強い立場にいる理由は、勉強が一番できるからだとか、スポーツが何でもできるからだとかいう単純な理由からは説明できないのです。ここがパワハラとは大きく違う点です。では、どういう子が(一番)強い立場になるのか。この点については、『スクールカーストの正体~キレイゴト抜きのいじめ対応~』(小学館新書、堀裕嗣著)が参考になります。
スクールカーストでの位置を決めるもの
著者の堀裕嗣さんは、スクールカーストの最上位を占める子どもが共通して持っている資質があると書いています。それが、「自己主張力」と「共感力」と「同調力」の三つです。わたしなりに言い換えれば、「自己主張力」は「自分を押し通す力」、「共感力」は「人の喜びや悲しみがわかること」、「同調力」は「人に合わせること、ノリのよさ」ということでしょうか。なるほどと思います。そして、この三つを一番多く身につけている子が、生徒集団を支配する力を持ち、逆にどれもあまりない子とか、ひとつだけしか持っていない子が、下位の、弱い立場になるというのが堀さんの考えです。つまり、スクールカーストとは、この三つの力の大きさによってできた力の序列(力のピラミッド)だというのです。(いじめとは、この力の序列の上位にある者たちが、下位にいる(多くは、仲間のいない)特定の子に対して、必ず集団で行うものです。)
堀さん自身が中学校の教員であるということもあり、このような考察はとても説得力のあるものです。特にわたくしがこの説明に説得力を感じるのは、いじめが起きている現場の次のような状況と、この考察がどこかでしっかりと結びつくからです。現実にいじめが起きた現場では、多くの場合、児童・生徒の中には起きたいじめを容認する意見が結構多いのです。具体的には、「いじめは確かに良くないけど、あの子だって良くないんだから、しかたないよ。」とか、「あの子は勝手すぎるから、あのくらいされても当然だ。」というような意見を、口には出さなくても相当多数の子どもたちが心の中に持っています。なぜそのような意見を子どもたちは持つのでしょうか。それは、子どもたちの多くが、いじめの被害にあった子がなんらかの形で、自分たちが暗黙のうちに守っている自分たちの集団「正しさ」に違反したと考えているからです。つまり、いじめを行った加害者は、ある意味で、自分たちの集団の「正しさ」を守るために、違反者を「罰している」のだという感じを持っているのです。問題はこの「正しさ」の中身です。
加害者の行為を「正しい」ものとして容認するような意見は、職場におけるパワーハラスメントでもよく出てきます。パワーハラスメントの場合の「正しさ」の中身となるのは、その組織(職場など)の目的、やり方、暗黙のルールなどです。みんなは、それを(いやいやながらでも)尊重して毎日働いているわけですから、それを平気で無視したり、犯したりする者が出た場合は、その人は罰せられても仕方がない、罰せられて当然だという考え方が出てくるのは、ある意味で当たり前です。これに比べると、学校やクラスの、子どもたちの中にある「正しさ」というものは、きわめてあいまいで、おとなにはよくわかりません。例えば、なぜ、女の子は、友だちからトイレに誘われたら、自分は行きたくなくてもいっしょに行かなければならないのか。女の子同士では、きわめて当たり前のこんなことが、男性教師や父親にはなかなか理解できません。また、子どもたちも、自分たちが当たり前と思って毎日やっていることが、どういう決まりに基づいているのか、なぜそうしなければならないのか、はっきり言葉にして言えないことも多いのです。おとなにいろいろ聞かれても、「とにかくそうなんだよ、わかんないよ、うるさいなあ」としか、言えないことも多いのです。これがさらに「何色のリボンを髪につけなければ学校に行けない」などという話になれば、おとなにはまったく理解不能です。
いじめはどのようにして起きるか
このような子どもたちを支配している「正しさ」は、実はスクールカーストの頂点にある児童、生徒の好みや考え方、振舞い、行動によって決まってくる場合が多いのです。その頂点にある子どもの周りに取り巻きの数名の子どものグループがいて、そのグループの子たちは頂点の子どもの感じ方、やり方を尊重し、それに合わせ、まねします。それによって、頂点の子どもの感じ方、やり方がそのクラスなどの「正しさ」になっていくのです。残りの大多数の子どもたちは、その「正しさ」を尊重し、それに合わせることで、クラスにおける自分の位置を確保していきます。ほぼ全員が、程度の差はあれ、そのようなクラスの「正しさ」に同調し、それに従って生活することで、序列をつくるとともに、同じ仲間としての結びつきをつくっていくのです。しかし、どのクラスにも、そのような「正しさ」のとおりに振舞えない、振舞わない子は必ず出てきます。自分たちのまとまりを維持していくためには、そのような振舞いをする子(いわば異分子)を放っておくことはできません。結果として、そのような子は周りからひっきりなしに注意や攻撃を受けることになります。いじめが始まる重要なきっかけのひとつとして、このようなことがあるとわたしは考えています。職場のパワーハラスメントの背景にある「正しさ」がどちらかといえば、「組織の中で機能的に発生した固定的で、比較的明快な」ものであるのに対して、学校のいじめの背景にある「正しさ」は、「集団の中で何となくでき上がった流動的で、よくわからない」ものになります。流動的だというのは、クラスのスクールカーストの頂点の子が失脚して別の子に変わった場合、当然にようにその「正しさ」の中身は変わるからです。
いじめがひどすぎるものになっていく理由
パワーハラスメントといじめを比較した時、わたしは次のようなことも違いとして感じます。パワーハラスメントをしているおとなは、たいていの場合、自分がパワーハラスメントをしているとは思っていません。「えっ、あれがパワハラなんですか。かんべんしてください。あれがパワハラならどうやって指導するんですか。あれは指導です。」と本気で言い張ります。しかし、学校でのいじめの場合は、たいてい子どもたちは自分たちがしていることがいじめだと自覚しています。もちろん、生徒指導の先生に、「あれはいじめだ。」と言われれば、「違います、みんなで遊んでいただけです。」とか、「わたしたち、あの子をのけ者になんかしていません。あの子が勝手にそう思い込んでいるんです」などと最後まで言い張りますが、それは「いじめ」だと認めたら最後、きわめてきびしい指導があることがわかっているからにすぎません。子どもたちは、自分たちの「正しさ」に従わない子に対して、その子を苦しめること(つまり、いじめること)を当然のことだと思っています。その子は自分たちの「正しさ」に従わないことによって、自分たちの結びつきを壊し、自分たちを否定しようとしているわけですから、当然の罰なのです。子どもたちは、自分たちの集団を守るために、確信をもってその子の一番苦しむことを徹底してやります。その子が苦しめば苦しむほど、自分たちの結びつきは強まり、自分たちの「正しさ」は確かなものになるとわかっているからです。そのようにして、その子が学校に来ない(自分たちの目の前にいない)ようになれば、一応の目的は達成したことになるからです。子どもたちの集団は、そのような強烈な同調圧力の中にあります。結果として、特定の子を痛めつけることによって、子どもたちは強く結びつき合うのです。子どもたちのいじめが、最終的にその子を死に追い込んでしまうほどひどいものになる原因がここにあります。
おとなはなんにもわかっていない
おとなは、このような子どもたちが尊重している「正しさ」を理解できないため、いじめに加わったり、見て見ぬふりをしたりしている子どもたちの行動や考えを、すべて頭から「いじめ、悪」として否定し、絶対許せないこととして、その考え方や行動を、一方的に非難、攻撃しがちです。しかし、このようなおとなの態度は、結果として子どもたちの中に、おとなへの不信や反感しか生みません。「いじめは絶対にいけないことだ。いじめは絶対に許さない。」とおとなが断言して、徹底的にいじめを排除しようとすればするほど、子どもたちは、おとなはなんにもわかっていない、だからおとなはダメなんだと考え、いじめは結果的に、証拠の残らない心理的ないじめになったり、SNSを使うような、おとなに見えないところで行われる一層陰湿なものになっていきます。
「どんな理由があっても、いじめは絶対いけない」という意見があります。まったくその通りです。しかし、それをいくら言っていてもいじめはなくなりません。いじめをした子を、どんなにおとなが叱り、いじめがどんなに卑劣な行為かを話して聞かせても、彼らはそんなことで反省などしません。彼らは、自分たちの「正しさ」を守るために、「間違っている子」を排除しただけなのです。同じことが人権の問題を考える上でも言えます。「これは差別だ、人権侵害だ、間違っている、絶対おかしい。だから、なくさなければならない。」その通りです。しかし、そんなことをいくら言っても、差別やいじめや人権侵害はなくなりません。このことをわれわれはしっかり正面から見つめなければなりません。「間違ったあり方」のかわりに「正しいあり方」をいくら主張しても、人々の行動は変わらないのです。
いじめを減らすには
では、いじめをなくすことはむずかしくとも、少しでもいじめを減らす、または初期の段階で止めることはできないのでしょうか。わたしはいじめを減らすことはできると思います。今、申し上げたように子どもたちの集団がつくり上げた「正しさ」がいじめを生んでいるとすれば、子どもたちの集団の性質を変えればいいのです。一言で言えば、スクールカーストのような力の序列(階層)を、完全になくすことはできなくても、その「正しさ」の支配力をゆるめることができればいいのです。
スクールカーストの「正しさ」の支配力は、「(このクラスの子たちは)みんなこうでなければならない、こうしなければならない」という点にあります。これが同調圧力となり、そうでない子、「正しい」振舞いをしていない子に、攻撃が向かうのです。ひとりひとりみんな違うわけですから、そもそも全員が一色になること自体が、不可能なことなのです。同じ色に染まらない子がいても、「あの子は、ああいう子なんだ(ああいう子がいてもいいじゃない)」という気持ちを、子どもたちの集団が持てれば、いじめは確実に減ります。「ちょっとおかしいけど、まあ、今のあの子は、あれでいいか」とみんなが思えればいいのです。
学校のまじめさが、いじめを生んでいる
理屈としてはそういうことになりますが、今の学校の中の子どもたちの集団が、そう思うことはきわめてむずかしいことです。学校自体が、個性の尊重とか多様性の尊重とか言いながら、実際にやっていることはその反対だからです。学校は子どもたちをひとつの理想とする姿に育てようとします。その学校にいる子どもたちをひとり残らず、たとえば、大きな声であいさつし、一生懸命勉強し、まじめにお掃除をし、みんなとなかよくする子にしようとするのです。さらに、それぞれの教員が、これが「よい児童・生徒だ」という微妙に違ったイメージをしっかり持っていて、それに近づけることが自分の仕事であり、責任であり、目標だと思っています。前回お話しした「コントロールとエンパワメント」の話を思い出していただけばわかるかと思いますが、子どもをうまくコントロールして、自分の(または、学校の)目指す「よい子」に近づけることが教員の目標になっています。このような「正しさ(目指すべきよいありかた)」がひとつしかないような学校という世界の中に、子どもたちの集団はおかれています。こういう状態の中で、「あの子は、ああいう子なんだ(ああいう子がいてもいいじゃない)」、「今のあの子は、あれでいい」というような思いを子どもたちが持つことは、まず不可能だとわたしは思います。だから、今の学校の中で、いじめは必然的に起きるのです。学校や教員のまじめさが、子どもたちのいじめを生んでいるとも言えるのです。
もちろん、教員の中にも心ある先生はいます。自分のひとつの考えに子どもたちを従わせるのではなく、それぞれの子どものあり方を大事にしてさらに伸ばそう(それが、エンパワメントですが)と努力している先生もいます。そういう先生は、たとえば明らかにいじめとわかっていることをした生徒と話す時も、すぐに叱りつけたり、責めたりするのではなく、まず「なぜ、ああいうことをしたのか」から聞きます。生徒は教員を信じていませんから、すぐには本当のことを話しません。しかし、そういう先生は、なぜああいうことをしたのかを、生徒が本音で話すまでは「指導」に入りません。それがわからなければ、指導のしようがないと考えるからです。ただ、残念ながらそういう教員は多くはありません。「いじめは、絶対に許さない」と繰り返し生徒には言い聞かせてあるのだから、事実(やったということ)さえ確認できれば、すぐにきびしい指導に入れるべきだと考える教員の方が圧倒的に多いのです。
学校は社会の鏡
何年も前から、日本では学校や教員の抱える問題点をあしざまに言うことが、どんどんふえているように感じます。しかし、学校は社会の鏡です。学校の抱える問題は、そのままその社会が抱えている問題なのです。今の日本社会が、つまりはわれわれが、今の学校をそのような問題を抱えるものにしているのです。今回、取り上げた学校や子どもたちの問題は、実はそのままわたし(たち)の抱える問題です。次回以降、さらに今の日本社会が抱えるさまざまな人権問題を取り上げながら、そのことをお話していきたいと思います。
