短編小説「日常」
フライパンの中心で、四角いバターの塊が静かに身をよじらせ、黄金色の液体へととろけていく。
微かな焦げた乳脂肪の匂い。それは、まだ眠りにまどろむ頭の中をゆっくりと解きほぐしていく、朝の静かな魔法だ。
私の足の甲には、長年使い込んだ毛布の切れ端のような——十七歳になる老猫の「琥珀」が、重く、温かく丸まっている。
「まだだよ」
声帯を震わせず、息だけで紡いだ言葉。
琥珀は片耳だけをピクリと動かし、私のスリッパの起毛に鼻面をさらに深く埋めた。ゴロゴロという低い喉鳴りが、足の骨を伝って私の膝先あたりまで響いてくる。古い柱時計の振り子にも似た、不器用で、たしかな命の温もり。
まな板の上には、厚さ四センチに切り出された食パン。
その純白の断面に、昨日買ってきたばかりのイチゴジャムを、バターナイフで滑らせていく。
赤と白の鮮烈なコントラスト。果肉の塊が、ふかふかの雪原に落ちた赤い椿の花びらのように、ひどく甘美な染みを作っていく。
しかし、端の耳の部分だけは、ほんの五ミリほど余白を残さなければならない。
コンロの火を止める。
使い込まれたホーローのマグカップに注いだコーヒーからは、焦げ茶色の湯気のベールが細く立ち昇り、換気扇の気流に吸い込まれて音もなく姿を消した。
窓の外は、春を前にした冷たい薄曇り。灰色の空が、屋根瓦を静かに覆っている。だが、この狭い台所の、さらに私の足元半径三十センチだけは、春の陽だまりのような特別な温度が生まれている。
焼き上がったパンを皿に移す。サクッ、という軽快な音が空気を切った。
途端に、足元の毛布の塊がのっそりと立ち上がる。透き通った古いガラス玉のような双眸が、迷いなく私の手元を見上げていた。
鼻の周りの白い毛をヒクヒクとさせ、短い尻尾が、期待に跳ねる小さな指揮棒のように揺れる。
私は皿をテーブルに置く前に、パンの端、何も塗られていないカリカリに焼けた耳の部分を、親指と人差し指でちぎり取った。
ほんの小さな、キツネ色の一欠片。
冷たいフローリングにしゃがみ込む。
琥珀の鼻先にそれを持っていくと、ザラザラとした温かい舌が私の指先ごと舐め上げ、あっという間にパン屑を受け取った。
はむはむと、不器用に、けれど愛おしそうに咀嚼する音。
床に散らばった微小なパン屑が、雲間から射し込んだ一筋の光に照らされ、砂金のようにチラチラと光っている。
私は立ち上がり、自分のための、ジャムで濡れた甘いパンに噛み付いた。
カリッとした表面のすぐ下から、溶けたバターと温かい苺の甘さが舌の上でふわりと解ける。
足元では、満足した老猫が再び私のスリッパの上に丸くなり、ゆっくりと、長い瞬きをしている。
時計の秒針が進む音。
胃の腑に落ちていく、柔らかな小麦の塊。
窓ガラスを、名残雪の溶けた水滴がゆっくりと滑り落ちていく。
今回の作品には、イメージソング「琥珀」と、作品の背景を語るポッドキャストを収録しています。
これまでの物語たちは、こちらのマガジンにしまってあります。眠れない夜のお供に、お好きな方を覗いてみてください。
