短編小説「なんだ、ただの紳士か」
信号機が赤く瞬く間、私の視線は自然と数歩先の背中に張り付いていた。
くたびれた薄灰色のスーツ。肩のラインは雨に濡れた段ボールのように頼りなく崩れ、首の後ろには寝癖がひとつ、風に揺れている。視界の端に映るだけで欠伸が出そうな、見事なまでに冴えない男。風景を無味乾燥に染め上げる才能すら感じさせる。
青へ変わる直前の沈黙。
男の隣に、背の曲がった老婆が滲み出るように現れた。手押し車を握る指先が、小刻みに震えている。行き交う車の気配に怯えているのだと、乾いた風が教えてくれた。
鳥の囀りを模した電子音が鳴る。
私がスマートフォンへ目を落とそうとした瞬間、濡れた段ボールが、ふわりと動いた。
「大丈夫ですよ」
低い、けれどよく響く声。男は己の歩幅を三分の一にまで縮め、老婆のひび割れた手を、薄玻璃のグラスでも扱うようにそっと支えた。老婆の顔にふわりと咲いた安堵の皺。
二人は、凪いだ水面を滑るように白黒の縞模様を進んでいく。
先ほどまで視界のノイズでしかなかったその背中が、今はどういうわけか、風雨を凌ぐ大樹の幹に似て見えた。不格好なスーツの皺すら、傾きかけた陽光を優しく乱反射している。
鼻で短く息を吐き、私はゆっくりと歩き出す。
冴えない男の正体なんて、蓋を開けてみれば、たかが知れている。
「なんだ、ただの紳士か。」
自分の唇の端が勝手に持ち上がるのを、私はどうしても止めることができなかった。
