短編小説「おとなになるのって大変ね」
揮発性の甘い刺激臭が、春先のぬるい空気を鋭く切り裂いた。
フローリングの上に敷かれた古新聞。その中央で、両手をパーの形に限界まで見開いたまま、小さな石像が息を潜めている。
姪のひまり。五歳。
彼女の十本の小さな爪には、母親の化粧ポーチから簒奪された、血のように真っ赤なマニキュアが、ひどく不器用な厚塗りで乗せられている。
大人になるための、静かなる通過儀礼。
「レディはね、指先で、ものを言うのよ」
昼下がりのテレビドラマの亡霊が、彼女の舌を借りて喋っている。だが、語るどころか、彼女は今、指先はおろか全身の筋肉を硬直させ、瞬きすら惜しむように自らの両手を親の仇のように睨みつけている。
鼻の頭に、極小の汗の粒が光る。
作業が終わってから、まだ三分も経っていない。しかし、代謝の激しい幼児の体感時間において、それは永遠にも等しい荒野だ。
「そろそろ乾いたんじゃないか?」
私が意地悪く指に触れる仕草をする、石像の瞳だけが、ギロリとこちらを射抜いた。
「素人は黙ってて。これ、『そっかんせい』じゃないんだから」
強気な口調。だが、その裏腹に、彼女の左足の親指が、もどかしげに床の木目を擦っている。
本当は今すぐ、ソファの上に転がるウサギのぬいぐるみを取りに行きたい。あるいは、さっきから微妙に痒い右の頬を、思う存分引っ掻きたい。
原始的な欲求と、美への執着。
その二つの巨大な重力の間に挟まれ、五歳の肉体は無言の悲鳴を上げている。
「……おんちゃん」
耐えきれなくなったのか、声が微かに震え始めた。
「おはなのあたま、かいて」
レディの尊厳より、痒みが勝った瞬間。
私が苦笑しながらティッシュペーパーを丸め、彼女の小さな鼻の頭を軽くこすってやると、ひまりは「ふう」と、憑き物が落ちたような熱い吐息を漏らした。
しかし、その一瞬の安堵が、致命的な油断を生む。
ふっと肩の力が抜けた瞬間、重力に負けた彼女の右手の薬指が、無残にも古新聞に触れた。
「あっ」
短い悲鳴。
せっかくの滑らかな水面に、無惨な波紋。新聞紙のテレビ欄に、べったりと擦り付けられたルビー色の痕跡。
完璧だったはずの魔法の鎧が、音を立てて崩れ落ちた。
泣くか。
私が慌てて除光液の瓶に手を伸ばしかけた、その時。
彼女は泣かなかった。
ただ、赤く滲んだ自分の薬指と、新聞紙の染みを交互に見比べ、人生で最大のため息を、春の空気に深く溶かした。
そして、どこか遠い海を見るような、大人びた憂いを帯びた目で、ぽつりと呟いたのだ。
「おとなになるのって大変ね」
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