かげろうの君と #21 第六話 陽炎③
第六話 陽炎③
「昭ちゃん! こっち!」
ありったけの大声で彼女を呼ぶと、昭子が幸子を認めた。
「さっちゃん!?」
二人のやり取りに周りから不満の声が上がる。
「おいおい! ここはもう無理だって言ってるだろ! 他へ行ってくれ!」
飛び交う怒号。普段は勇ましく一億玉砕を叫んでいる市井の人々の、これが極限状況におかれた剥き出しの姿。
だが責めることなど出来ない。お国のため、と唱えさせられながらも、誰もが、本心では死にたくなどないはずだから。
これが戦争なのだ。
幸子は唇を噛むと、すっと立ち上がった。
「そこを何とかお願いします! 昭ちゃんは来月祝言が控えているんです! その代わりあたしがここを出ていきますから!!」
文句を言っていた連中が、幸子のその大声に、一様に押し黙る。
幸子は昭子を自分のところに呼び寄せると、彼女の手を取った。
「さっちゃん……」
「あたしは大丈夫。米軍の爆弾なんて平気よ。だってあたしは、お転婆幸子なんだから」
幼い頃は、周りからそう呼ばれていた。厳格だった父に矯正されるまでは。
「さっちゃん!」
昭子が涙を流しながらイヤイヤと首を振る。
幸子は頷くと昭子の手をぎゅっと握り締めた。
「昭ちゃん、お願い。必ず……幸せになってね」
前に、拓海にお願いして、うぇぶで彼女と彼女の夫の名前を調べてもらったことがある。
検索の結果、二人の名前は部品加工メーカーの沿革に見つけることが出来た。
彼女は戦後、夫と共に裸一貫で町工場を立ち上げ、その工場は高度経済成長の恩恵を受けて、そこそこの規模にまで成長したようだ。
そして今は、二人の孫が社長を務めていることまで確認できた。
親友の幸せな未来を変えるわけにはいかない。
幸子はにっこり笑って見せると、振り返ることなくその場を離れ、浅川の土手を駆け上がった。
背後に迫って来る爆音。
思い出した。80年前のあの時、本当は怖くて仕方なかったことを。
思い出した。自分だって、好きな人と出会って幸せになりたかった、と泣きじゃくりながら、この土手を上ったことを。
でも、今は怖くない。
だって、貴方がいる。80年後の、この橋に。
未来のこの街で、貴方が暮らしている。
見たこともないような百貨店でお買い物をして、純喫茶でブルーマウンテンを片手にすまあと本をいじっている貴方がいる。
この橋を、心の中で笑ったり泣いたりしながら、毎日渡っている貴方がいるのだから。
轟音と共に迫ってくる、夜空を埋め尽くさんばかりの銀翼の悪魔たち。
生まれ育った八王子の町が、昼間に大好きな彼と歩いたこの町が、次々と炎に包まれていく。
そう、あたしはここで死んで、そして80年後にここで、あなたと出会った。
あたしは今日、またここで死ぬ。
でも今度は成仏してみせる。そして、生まれ変わって、絶対にまた、貴方とここで出会うの。
だからあたしは、怖くなんかない。
炎の照り返しで、漆黒の夜空に不気味に浮かび上がるジュラルミンの銀色の機体。
ありがとう、拓海。
あたし、貴方に出会えて、初めて恋をして、たくさんの楽しい、素敵な思い出をもらって、とても幸せに人生を終えられる。
幸子の頬を涙が伝う。
さようなら、あたしの愛おしい人。
「でも、拓海……。あたし……、やっぱり怖いよ……」
空から、自分を目掛けて落ちてくる焼夷弾。
そっと涙に濡れた目を閉じ、彼の証が残るお腹に手を当てる。とても優しくて大好きだった、彼の顔を思い浮かべて。
いくよ、拓海。
そして、世界が暗転した。
***
「おい! 君! 大丈夫か?」
目を覚ますと、橋のたもとに居た。年配の警察官が心配そうに覗き込んでいる。
「あ……、俺」
「酔っ払って寝ちゃったんだろう。冬だったら凍死しているぞ?」
「す、すみません……」
「まあ、一応職質だけはさせてもらうよ。身分証はあるかい?」
拓海はふらふらと立ち上がると、警察官に抱えられながら、免許証を提示した。
気さくな警察官の聴取から解放されると、足取りも重く、ふらふらと家に戻る。
まるで夢を見ていたようだ。歩きながら手のひらを見る。
いや、夢なんかじゃない。俺は確かにこの手で、この腕で、君を抱いた。
自宅に着き、玄関のドアを開けると、途端に現実に引き戻された。
いつも自分の帰りを待ってくれていた彼女がいなくなった家。
部屋に入ると、ハンガーに掛けられた彼女の服が所在なさげにぶら下がっている。
机の上に置かれた、思い出のセルフィー。
カメラに向かい、幸せな未来を信じて頬を寄せ合う幸子と自分の笑顔。
今は見るのも辛くて、写真を伏せようとフォトフレームに手を伸ばしたところで、ふと違和感が過ぎった。
少し斜めにずれている写真。几帳面な性格の自分が、このままにしておくことなどあり得ない。
フォトフレームを手に取り、フタを外して写真の裏を見る。そして。
「あ……、ああっ……」
あっという間に視界がぼやけると、拓海はその場に崩れ落ちた。
『たくみ ありがとう だいすき さちこ』
拓海がいない時に、力を振り絞って書いたであろう、ありったけの想いが込められた、たどたどしい文字。
「さっちゃん……、さっちゃ……」
ただ、泣いた。何度も何度も畳を叩いて、声を上げて。
忘れない、絶対に。二人で過ごした、とても幸せだった愛おしい日々を。
彼女のためにも。
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