「あくび」から始まる物語、片思い文芸部、1066字
世の中には、いろいろなお題が提示されているのですね。ありがたいことです。今日は、こちらを。
あくびをひとつ、またひとつ。
春の日だまりの中で丸くなる猫みたいに、気づけば何度もしていた。
それが終わるたびに、私の中のことばが、ひとつずつ、すうっと消えていく。
大好きな翔太くんが、私に笑顔で挨拶してくれたら、なんだってあげるって、空に向かってお願いした。
今朝、その願いは叶った。
翔太くんが、通学路の角で、私に向かって「おはよう、春日さん」って笑った。
声が、陽だまりみたいにやさしくて、胸がぎゅってなった。
でもそのあと、私は気づいた。
授業中、あくびをしたとき、筆箱の中の字を書くための棒の名前が……、字を消すための弾力のある四角いものの名前が……どうしても思い出せなかった。
願い事をしてから、何度もあくびが出る。その度に言葉を忘れていく。
そのとき、わかった。
あくびをする度に言葉をひとつずつ忘れていく呪いなんだって。
たぶん、お願いの代わりに、何かを差し出す約束をしてしまったのだと思う。
だからすぐに願った。
「好き」という言葉だけは、ぜったいに忘れたくないって。
たったひとつ、それさえ言えれば、それだけでいいって。
ただの片思いだとわかってる。
言ったら、翔太くんを困らせるってことも。
きっと、迷惑だって思われることも。
でも、それでも、私は言っておきたかった。
忘れる前に。
失くす前に。
言わないまま消えてしまうなんて、それがいちばん怖かった。
今日もまた、ひとつ、あくびをした。
私はまだ、「好き」を持っていた。
朝、言わなきゃ、と思った。でも、声にできなかった。
それでも、ほんとうは、伝えたかった。
翔太くんに、知っていてほしかった。
放課後、校舎の裏で、翔太くんの姿を見かけたとき、私はそっと近づいた。
足音は小さく、小さく。
そして、私は深く息を吸いこんで、口を開いた。
「あの、ね……」
そのとき、ふいに、大きなあくびが出た。
長くて、深くて、少し涙がにじむような。
そして、私は言葉を失った。
唇を動かそうとしても、もう、声が出なかった。なんて言おうとしたのかわからない。
口のかたちがふるえて、思いが胸の奥で渦巻いたけど、声にならなかった。
翔太くんが不思議そうに笑った。
「どうしたの?」
私は首をふって、笑った。
そして、そのまま、何も言わずに歩き出した。
すれ違うとき、彼の肩が、ほんのすこしだけ、私の肩に触れた。
胸が焼けるように熱くなった。
私の中には、もう、言葉はほとんど残っていなかった。
だけど、喉の奥から、かすかに、音がこぼれた。
「す……き」
それが何を意味するのか、もうよくわからなかった。
ただ、その音が、なにか大切なものだった気がして、胸がすこしだけあたたかくなった。
