Yシャツ犬、毎週ショートショートnote、裏お題、779字
廃ビルの奥、ひび割れた姿見の前に、毛並みの悪い、ジョンという名の犬がいた。
犬は、盗んできたYシャツを何枚も何枚も重ね着していた。犬はゆっくりと顔を上げ、自らの姿を鏡に映す。くーんという声は、どこにも届かない。
錆びた手すりの隙間から、かつて自分が暮らしていたあたりを見下ろす。そこにはもう、家はなかった。道路を拡張する工事が行われていた。
あの夜のことを思い出す。お姉さんがYシャツの男を連れて帰った日。
男は笑い、お姉さんも笑った。お姉さんの指が、その男のYシャツの胸元に触れた。
そして思った。奪われた、と。
立場を。居場所を。あの柔らかな声と手のぬくもりを。
夜のうちに家を出た。
Yシャツ。
それは、彼にとって資格だった。
愛されるために、必要だと思った衣装。
だから犬は集めた。洗濯物干し場から、コインランドリーから、店先のディスプレイから奪い続けた。それが哀れな行動だったと誰かが言ったとしても、犬にとってそれは、最後の希望だった。
その朝、犬は白いYシャツを一枚だけ選んで身にまとった。
風に揺れる裾を引きずりながら、ビルを出た。
小さく鼻を鳴らしながら、角を曲がったそのとき、目の前に人影があった。
男だった。あのYシャツの男。
変わらず白いシャツを着ていた。だが、昔より少しくたびれていた。目の下に影があり、袖口はわずかにほつれていた。
「ジョン、探したぞ」男は言った。
その声は犬の耳に、思っていたより優しく響いた。
「一緒に帰ろう。沙織が……沙織が、すっかり元気をなくしちゃって」
犬は動かなかった。
Yシャツの下、胸の奥で、なにかがかすかに揺れていた。
風が吹き、裾がはためいた。
男はしゃがみ込み、静かに手を伸ばす。
その掌が、何よりも先に、Yシャツではなく犬の頬に触れた。
「沙織がお前の帰りを待っているんだ」
犬は目を閉じた。
世界が、少しだけ、あたたかくなったように感じていた。
