哀愁の燻製、毎週ショートショートnote裏お題、843文字
祖父が死んだ。静かに、煙のように消えた。
その言い方があまりにしっくりきたのは、遺品の中に残されたひとつのカプセルのせいだった。
金属の箱に、手書きのラベルが貼ってある。やけに筆圧の弱い字で、こう書かれていた。
「哀愁の燻製」
燻銀の筐体には小さなポートがあり、脳波接続用のスロットがひとつ。旧型だ。今は感情の保存なんて誰もやらない。オープンソース感情アーカイブが主流で、個人の情緒なんてクラウド上の匿名データだ。
だが、祖父の世代はちがった。感情は密封して、寝かせて、やがて味わうものだった。
燻製のように。じわりと、時をかけて。
大学のラボにある旧型リーダーを無断で起動した。
ヘッドセットをつけ、記憶回路を同期させる。
起動音が、小さくくぐもったように響いた。
一瞬、室内がタバコのような匂いに包まれる――錯覚か、演出か、それとも記憶の中の匂いか。
ぼくの意識は、カプセルの中に降り立つ。
そこには、誰でもない祖父の感情が、低温でゆっくりと揺れていた。
青年だった祖父がバイクの後部座席に、祖母を乗せて走る映像。
風、熱、うなじの皮膚の感覚がある。
後ろから聞こえる、きゃっきゃと弾む音の奥に、怯えと信頼が交錯する、笑いながら揺れる祖母の声。
祖母が倒れた日の病院のベンチ。白い光。
赤子であった僕の父が初めて言葉をしゃべった夜。部屋の片隅のぬいぐるみが笑っていた。
失われた仕事、薄れゆく視力、静かに満たされた無力感。
そのすべてを燻し、閉じ込めることに決めた祖父の手が、感情保存装置のスイッチを押す。
塩気は抜け、苦味は残り、深層のほの温かさだけがゆるく残る。
それは怒りでも希望でもなく、懐かしさでもない。名前のつけられない、だが確かに人間の感情だった。
ぼくは目を開ける。
ヘッドセットを外す。
カプセルはまだ、机の上にある。
煙も、音も、何もない。
ただ、今ならわかる気がする。
祖父がなぜ、その記憶を燻したのか。
それを誰かが開ける未来を、静かに期待していたことを。
封を切られた哀愁は、
もう一度、僕の中で、微かに香り立った。
