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【短編小説】黒の一線

仕事終わりの夕暮れ。空は朱色に染まり、悠々と立ち構えるビルを背景に人がガヤガヤと足早にすれ違っていく。普段はなんてことないただの景色だ。だが今の俺にはもはや悪魔の囁きに聞こえた。

雑居ビルの一階にあるコンビニへ歩を進める。今回はあえて家から遠めの、いつも使うコンビニとは違う場所を選んだ。ゆっくりと自動ドアをくぐる。挨拶しながら気だるげにレジに立つ店員と何人かの客。俺はちらりと雑誌コーナーを見る…が、一直線には向かわず適当にスナック菓子を見漁る。客が居なくなる頃合いを見計らいながら、そのままゆっくりと、コーナーへ近づいていく。…あった。視界の端に映る真っ黒な袋。他の雑誌に紛れ込むようにひっそりと佇んでいる。これが今回のお目当てだ。「黒新聞…」小さくそう呟く。以前、職場の同期から話を聞いた。この世には普段から報道されることのない隠された情報があるということを。そしてそれを知るだけでも自分の世界が大きく変わるらしいと。『興味あるなら買ってみろよ。』彼の声が脳裏に響く。自然と手がそれに引き寄せられていく。だがその瞬間、別の客が俺の後ろを通り過ぎた。「…ッ!」俺は反射的に手を引っ込めてしまった。じんわりと冷や汗がにじむ。俺はしばらくその場で硬直していた。

黒新聞。その名は以前にも何度か聞いたことがある。ただ自分には縁のないものだと最初から大して興味を示すこともなかった。詳しく知ったのはそれを実際に読んだという同期からだ。彼も俺と同じく最初は黒新聞と縁のない者だった。だがある日、ふと好奇心が湧いて購読したという。彼曰く…そこには、普段の生活ではとても知り得ることのできない、実に刺激的な情報が載っていたようだ。聞いても言葉を濁されたが、世界の裏側を扱った内容らしい。一度読んでからクセになって何度も購読しているという。知りたいなら自分の力で知れと、彼はそう言っていた。

実際、仕事の休憩時間に人気のない場所で彼が黒いものを広げているのは何度か見たことがある。それが黒新聞だと知ってから、俺も段々と興味が湧き出てしまうようになったのだ。
「はぁ…」小さく息を漏らす。今なら客はいない。なに、ササッと持って行って会計してもらえばいいだけ。俺ならできる、ガキでもない、もう大人なんだ。右手が微かに震える。意を決して素早く棚から取り出した後、一直線にレジへと向かった。

「いらっしゃいませー…」俺が出したものを見て、店員の顔が一瞬曇る。「…年齢確認をします。身分証の提示をお願いします。」俺は早まる鼓動を抑えながら身分証を見せる。「ありがとうございます。」成人だと分かると店員は慣れた手つきで会計をすましていく。俺はよそ見をするていで視線だけ背後にかわす。後ろに客は…まだいない。ほんの数分にも満たないこの瞬間が俺には永遠に思えた。「はい、ではご確認のうえ、服用・閲覧はご自身の判断でお願いいたします。ありがとうございました。」淡々と無表情で話す店員の視線はどこか鋭かった。俺はすばやく受け取り、鞄に押し込みながら出口へ向かう。その時ちょうど扉をくぐった客と目が合った。鞄からはみ出たそれに一瞬目をやり、また俺の顔に視線を戻す。何かを見透かされているような気がした。背筋が冷え、心臓の鼓動が大きくなる。俺は目も合わせず、もはや息すらまともに吸えないまま店を後にした。

段々と見慣れた道が見えてくる。先ほどの賑やかさとは打って変わって静かな住宅街が広がっている。俺は少しずつ呼吸が自由になっていくのを実感した。足取りは重いままだったが、それでも張りつめていた心がようやく緩み始める。気づけばいつも通りの景色に囲まれていた。
俺の歩みに合わせて鞄の中からカシャ…と微かに擦れるような音が聞こえる。見ると隙間から細長い黒が顔を覗かせていた。胸の奥が軋む感覚に俺はゆっくりと息を吐いた。薄明りの下、古びたアパートの階段を登り、扉の前まで来ると手探りで鞄の中の鍵を探す。
…あった。ガチャリと扉の開く音。今日、ついに俺は手を出してしまった。胸の奥がざわつく。一度見てしまえば、二度と元に戻れないかもしれない。だがもう止まれなかった。一度心の中に芽生えた好奇心は溢れて、自分でもどうにもできなくなっていく。…何かが、壊れた気がした。もういい。ああ、そうだ。俺は自分自身で知る選択をしたのだ。鍵をまわす指はもう震えていなかった。扉がガチャン、と重い金属音を立てて閉まる。日の沈んだ空はカラスの鳴く声も聞こえなかった。


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