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近代日本外交史 佐々木雄一


https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/10/102719.html

『近代日本外交史 佐々木雄一』読了
ペリー来航から1945年の敗戦迄の日本外交史。あっさり纏めており、大まかな流れを知りたい方には適してます。日清、日露、日米。相手国は強大なのに米国だけには負けた。外交の何が問題だったかもっと深堀されていれば良かったと思います。


幕末に日本が西洋諸国と結んだ不平等条約。日本側が不平等性の認識を十分に持たなかったことには、国際関係に関する知識の不足が影響を与えていた。ただ、それだけではない。例えば、領事裁判制度では、外国人が日本で日本人に対して権利侵害をした場合に外国側の領事による裁判を行う。外国人を日本で裁こうとしても、当時の日本には近代西洋式の法制度は存在しない。言葉が十分に通じるかどうかという問題もある。西洋人に対する処罰を巡って、かえって西洋諸国とトラブルになり得る。不法を働いた西洋人は西洋諸国の側で処罰させるというのは、幕府にとって自然な対応だった。P10

日米修好通商条約締結に関して幕府は勅許(天皇の許可)を求めた。幕府側としては勅許を得られるものと考えており、条約調印の正当性を高めるためにそのような行動をとった。ところが、勅許は得られなかった。勅許を求めた末に、勅許を得られなかったにも関わらず条約を結んだのであって、幕府の立場は悪化した。天皇の権威は18世紀後半以降、いくつかの要因があって徐々に浮上してきていた。そこにこの条約締結をめぐる勅許の問題などが重なり、天皇や朝廷、京都は政局の焦点として急速に存在感を増していく。対外問題は、日本の国内体制の変動に直結した。P12

マリア・ルス号事件。1872年、横浜に入港したペルー船、マリア・ルス号から清国人苦力(奴隷労働者)が脱走し、イギリスの軍艦に助けを求めた。一度は神奈川県を通じてマリア・ルス号に戻されたものの、その後、同船内の清国人の過酷な待遇が明らかになるなどして、イギリス側が日本政府に対応を要請する。アメリカも、イギリスにに賛同する姿勢を示した。日本側はマリア・ルス号の審問を行い、同船を拘留する。そして神奈川県での裁判の末、清国人は解放された。
ペルーは翌1873年、前年の対応に関して日本に謝罪と損害賠償を要求した。日本は応じず、その問題はロシア皇帝の仲裁裁判に委ねられ、1875年、日本の措置は妥当であったとの判決が下る。新政府が発足して未だ日が浅い中で関わる事となった事件の国際裁判で、日本側の主張が通ったのだった。P18-19

1886年、ノルマントン号事件が起きている。難破した船から西洋人船員は脱出して日本人乗客は全員水死し、イギリス側の審判で船員が無罪となったものである。(ただし、その後の告訴で船長に有罪判決)。日本と諸外国との関係の「不平等」性に向けられる日本国内の目は、一層厳しくなった。P24-25

日清戦争の下関条約調印後の三国干渉。日本は、遼東半島を清に還付するのと引き換えに償金を得ようとした。多額の賠償金に加えて遼東還付金も支払うとなると、清はさらに列強諸国からの資金供給に頼ることになる。しかし日本側はそれでも構わないと考えていた。11月に遼東還付条約が締結され、清は日本に3000万両の償金を支払う。P57

陸奥宗光は、「要するに兵力の後援なき外交は、如何なる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れざることあり」と記している。P58

日清戦争中、清は度々ヨーロッパ諸国の介入を求めており、実際、三国干渉によって遼東半島を取り戻すことができた。清が自ら、列強が東アジア情勢に関与する道筋をつくっていた。そして清はロシアを頼る路線に傾斜し、1896年6月には露清共同での日本への対抗やロシアへの満州の鉄道利権の供与が定められた。その様にして、日清戦争を機に、ヨーロッパ列強の東アジアへの進出が本格化する。象徴的な出来事が、いわゆる中国分割である。P68

1905年5月に日本海海戦が行われる。これは、ロシア艦隊をほぼ壊滅させて日本が完勝した。日本政府はそれを機にアメリカに講和の仲介を依頼し、8月、アメリカのポーツマスで講和会議が始まる。日本はその間に樺太も占領している。
講和交渉に臨むに当り、日本側が講和の絶対必要条件としていたのは、韓国を日本の自由処分に委ねること、日露両軍の満州からの撤退、旅順・大連租借権と南満州の鉄道の譲与である。これらは、細部の修正はなされたものの、早々に認められた。
一方、日露の意見が対立して交渉が重ねられたのが、賠償金と樺太割譲の問題だった。議論は行き詰り、日本側全権の小村は、どこまで本気だったかは定かではないが、談判決裂を日本本国に予告するに至る。しかし日本本国の政軍指導者たちは、より好条件での講和を達成するまで戦争を継続するのは軍事的・経済的に不可能だと考えた。そして償金と樺太割地を放棄してでも講和を成立させると決定した。小村に対し、まずは償金の方から撤回するといった手順を指示しつつ、ともかく今回の講和の機会を逃さない旨が明言された。P88-89

韓国(朝鮮)の独立支援は、伊藤が日清戦争以前から主張していたことであった。
初代韓国統監に就任した伊藤は、伊藤自身の主観としては、自分が日本で近代国家建設に携わってきた経験を活かし、韓国で施政改善に取り組み、独立を支援しようとした。日清戦争時の伊藤馨と同じ発想である。P92

日露戦争後に一旦首相の座を退き、1908年に再び首相となった桂や外相の小村は、朝鮮半島を日本にとって安全な状態にするにはできる限り韓国に対する日本の支配を強化したほうがよいと考えていた。そのような意識から支配の強化が目指されれば、行き着く先は併合である。伊藤も、韓国内の人心掌握が達成されず、義兵闘争も高揚するなかで、具体的な手順や態様はともかく韓国を併合すること自体は容認するようになった。P93

1909年7月、桂内閣は韓国併合の方針を改めて決定した。10月には、伊藤が韓国の独立を掲げる安重根にハルビンで暗殺される事件が発生する。ただ、それによって韓国併合への流れが急激に生じたわけではない。韓国併合という目標自体は既に日本政府内で確立しており、突発的な事件如何に関わらず、あとは列強からの合意を取り付けるのみだった。ロシアやイギリスとの折衝を行ったうえで1910年8月、日本は韓国を併合した。P93-94

(帝国主義外交で)重視されていたのは、大国間で認められる正当性や公平性である。倫理的な正しさではない。従属下に置かれる側、侵略される側のことは考慮されていなかった。例えば韓国併合を行うに当たって日本が注意を払い、最後まで交渉を重ねたのは、イギリスやロシアである。諸列強に認められれば円滑に韓国を併合できるという考えであり、韓国人の意向に重きは置かれていなかった。あるいは、中国分割の流れの中で日本は西・ローゼン協定を結んだ。ロシアが清から旅順・大連を租借したのと釣り合いを取るように、朝鮮での日本の商工業上の優越をロシアに認めさせた。日本の外交担当者から見れば、公平で正当な外交だった。ロシアが満州に進出するならばそれに見合う形で日本は朝鮮に進出する、朝鮮で何かを得る、ということである。P101-102

日本はとりわけアメリカとの間で日本人移民の差別・排斥問題を抱えていた。黄禍論もあった。急速に伸びて来る新興国・日本に対する警戒心が、黄色人種に対する警戒や差別と結びついていた。P153

様々な形で、白人・欧米人から差別されているという意識が日本人の中にあった。パリ講和会議では人種差別撤廃という日本の要求が通らず、日本国内で怒りの声が上がる。そして1924年にはアメリカで、帰化不能外国人の入国を禁止するという形で日本人の移民が禁じられたいわゆる排日移民法が成立し、日本に衝撃を与えた。日本人は世界で不当な扱いを受けているのではないかという意識や国際社会に対する不信感は、マグマのように溜まっていた。P153-154

五・一五事件を受けて、元老・西園寺公望は政党内閣を続けるのではなく海軍長老の斎藤実を首相とする挙国一致内閣を選択する。結局その後、政党内閣が復活することはなかった。二・二六事件後に広田弘毅内閣が組閣される際には、陸軍は陸軍大臣のみならずほかの大臣の人事にも介入した。
その間、政党人、議会人の中に軍に抵抗した者が皆無だった訳ではない。ただ、政党が一致団結して軍の台頭を阻もうとするといったことはなかった。統帥権干犯問題を積極的に提起したのが政友会であるように、軍の台頭を後押しすらしていた。軍との関係に限らず、政党間あるいは党内の政争が優先され、政党政治の基盤を掘り崩していた。P185-186

有力新聞などの世論は、1920年代には軍に対して批判的な意見が主流だった。しかし満州事変を機に、反対の方に振れる。軍の論理を是認し、対外強硬論を唱え、軍事行動を後押しした。P186

国民も、正当を擁護して軍と対抗するなどということはなかった。むしろ政党は不信感を抱かれていた。報道の影響もあり、政党ないそ政党政治に関して、腐敗、不正、スキャンダル、無秩序といったイメージは強かった。そうした背景のもとで、既存の政治体制や支配層への批判意識から行われたテロに対する社会的な非難は徹底せず、同情さえ寄せられた。P186

天皇中心のあるべき姿に国家を作り直すと訴えてテロやクーデターに走る者も続出した。血盟事件も、五・一五事件も、二・二六事件もそうであった。正当や財閥、既存の支配層は腐敗している。国や政治を歪めている。本来日本は天皇を頂点として国民が皆それに従る形であるはずなのに、間に入って牛耳っている者たちがいる。それを取り除くのだ、という理屈である。
生身の天皇自身、つまりこのときは昭和天皇だが、昭和天皇は天皇機関説の排斥もテロやクーデターも望んでいない。二・二六事件の際には、反乱軍の行動を正当化するような動きが軍内にある中で、昭和天皇は重臣などが殺害された事に怒り、クーデターの鎮圧を強く求めた。P187-188

対米開戦。相手国が強大というのは、日露戦争もそうである。時間が経てば軍事バランスが相手に有利になるため戦うなら未だ、との開戦に向かう同種の理屈もあった。ただ日露戦争時は、首相の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎が、明確な意思を持って開戦を主導した。また外交部門も軍事部門も、どうすれば優勢な状態で講和に持ち込むことができるか、いかなる条件で講和が成立し得るか、当初から具体的に考えていた。しかも日英同盟があり、アメリカもおおむね日本に好意的だった。P199-200

それに対してこのときは、第二次近衛内閣期に外交方針を巡って松岡外相が周囲と対立を深め、松岡を外す形で、1941年7月に第三次近衛内閣が成立し、豊田貞次郎が外務大臣となった。さらに10月に首相は近衛から東条に、外務大臣は豊田から東郷重徳に代わる。対外政策を一貫して指導する者はなく、国家意思決定に関わる諸集団の考えもバラバラだった。P202

長きにわたる中国との戦争が続いている。ソ連とは一応中立条約を結んでいるものの潜在的に緊張関係にある。期待をかける同盟国のドイツと日本は真に協力して戦争を遂行する構えではない。それぞれの目的・戦略本位だった。そうした中で日本はアメリカやイギリスを相手に戦争を始めた。P202

昭和天皇は、国家意思決定の場で、戦争を止めようという意見を明確に示した。国民に詔書を出すことや放送を行うことにも触れた。実際、そのように進んだ。昭和天皇はそれ以前に度々重大な政治的行動をとっていた。そして敗戦受け入れを巡り指導者たちが意見を統一して決定を下すことができないという状況において、天皇の踏み込んだ意思表明が必要とされた。P204

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