【ポーランド統一労働者党プワヴィ派の指導者】ロマン・ザンブロフスキー
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ロマン・ザンブロフスキー
ロマン・ザンブロフスキー(本名:ルビン・ナスバウム、1909年7月15日 - 1977年8月19日)は、ポーランドの共産主義政治家である。
経歴
ザンブロフスキーは、ワルシャワのユダヤ人の家庭に生まれた。ポーランド共産党(1928-1938)、ポーランド青年共産主義者同盟中央委員会(1930-1938)のメンバーであった。ソヴィエト連邦での第二次世界大戦中、1943年からポーランド愛国者連合(ZPP)、1944年からポーランド中央共産主義局(CBKP)の主要組織者・指導者の一人であった。彼は、ポーランド第一軍の政治・教育指導部の責任者であった(1944年~1945年)。
1944年からポーランド労働者党(PPR)、そして1948年から1968年までポーランド統一労働者党(PZPR)のメンバーであり指導者の一人であった。ポーランド統一労働者党の中央委員会(1948-1964)に所属し、中央委員会の書記(1948-1954および1956-1963)を務めた。1948年から1963年までポーランド統一労働者党の政治局に在籍した。1956年、彼はプワヴィ派(※メンバーの多くがユダヤ系だったとされる)と呼ばれるポーランド統一労働者党の派閥のリーダーであった。ザンブロフスキーは、国家国民評議会の副議長(1944-1947)、その後、国会議員(1947-1965)、国会副議長(1947-1952)を務める。1945年から1954年にかけては、経済的に有害な活動や不正行為と闘うための特別委員会の委員長を務め、1963年から1968年には最高監査室(NIK)の副会長を務めた。
1968年のポーランド政治危機を引き起こしたとして、またシオニストとの関係を非難され、1968年にポーランド統一労働者党から追放され、最高監査室の副会長職からも解任された。
その後の人生と遺産
ジャーナリスト、アントニー・ザンブロフスキーの父親である。アントニ・ザンブロフスキーは2019年に亡くなった。
ザンブロフスキーの日記をはじめ、ポーランドやポーランド統一労働者党に関する著作は、フーバー研究所に所蔵されている。
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最後に
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