見出し画像

足りない欠片 第2話 脱走犯ナナ

  • 第2話 脱走犯ナナ


僕は、窓ガラスの冷たさで夜を知る。

ブロック塀の上から、顔の真ん中に丸い斑のある猫、サスケが喉を鳴らした。

この辺りの一番広い「道」を知っている、古参の地域猫だ。

窓越しに目が合うとサスケは鼻の穴をヒクつかせて、髭をピクリと動かして見せた。

「おい、茶色い家猫。お前が探していた例の半野良、見かけたって奴がいるぞ」

僕は、返事をする前にどっちの足から踏み出すのかわからなくなってその場で足踏みしてしまった。

「…… ほんと?」声が裏返り、爪が窓ガラスにカツンと当たった。

「ねえ、その猫……」

心臓の鼓動が肉球にまで伝わってくる。

僕は脇腹をガラスにぴったりと張り付かせた。尻尾の先が冷たいガラスに当たり、小刻みに震えた。

「北の野良猫の話だ。俺がこの目で見たわけじゃねえ」

僕はうなずいた。
うなずいたつもりだったけれど、喉の奥がきゅるるっと音を出しただけだった。

外の世界には、僕の知らない猫の道がある。
鼻先をかすめる風や、塀に残った匂いが重なる場所。
そこに、足を止める猫もいれば、目を細めて通りすぎる猫もいる。
サスケはそんな場所を歩いてきた。

「……この前お前んちのカナタから、上等の干しささみを貰ったからな」

サスケは喋りながら、僕の背後にカナタがいないか探るように視線を巡らす。

ちなみにカナタはこの家の息子。
野良猫を見かければすぐにご飯をあげてしまう。

「赤ん坊を産んだって話だ。小っけえのが四つもくっついてたってさ」

「赤ん坊……」

押し当てた脇腹が冷たくて、漏れた息でガラスが白く曇った。

赤ん坊の後に続いたサスケの言葉はほとんど聞こえていなかった。

「……そっか……」

それだけ言った。

去っていくサスケの後ろ脚の肉球だけが目に焼き付いた。

それから数日後の夜だった。

「おい、ナナ! 来てみろよ!」

風呂場の方からハチ兄の声がした。

ハチ兄は落ち着きなく、その場をぐるぐる回っている。
犬みたいにハアハア言いながら尻尾が床をバンとならした。
その拍子に僕に小さく水しぶきが飛ぶ。

湿った匂いのその先には細く黒い線が見える。

線じゃない。隙間だ。

「すげぇなぁ」 

ハチ兄が窓の隙間に軽く前足をかけると、また少し隙間が広がった。

僕も覗いた。

ブロック塀があった。

助走はいらない。

跳べば届く距離だ。

次の瞬間、足が床を蹴っていた。

爪が塀の上に引っかかった。

ブロック塀のざらざらが肉球を擦る。

振り返ると、窓ガラスの向こうにハチ兄の顔があった。

ハチ兄の顎が下がりぽかんとなっている。

ハチ兄の前脚は窓枠にかかったままだ。

右の前脚が一度浮いて、止まった。

それからその前脚を濡れた床に引っ込めた。
 
辺りは真っ暗だったけれど、少し先にある街灯が道路を照らしている。

ブロック塀は混み合った住宅同士の仕切りとなっていて、道路に降りなくても、北の方向へ高くなったり低くなったり折れ曲がりながら続いていた。

小さく息を吸い込むと縄張りの匂いがした。

僕はもう一度足を踏みかえると、夢中で塀の上を突っ走った。
 
遠くから大通りを走る車の音が聞こえる。酔っ払いの大声や猫の喧嘩の声も聞こえる。

背中の毛が蒸した夜の空気を吸って体にべたりと張り付く。
 
一瞬、人の気配を感じて立ち止まった。

カーテンの端を握った女の子が指をさして僕を凝視した。

女の子の見開いた黒目が左から右へと移動する。

その目を振り切るように猛スピードで、塀の上を北へと走った。

塀が途切れ、立ち止まるしかなかった。

「よっ。茶色いの」

下から声がした。

心臓が、一度ドクンと大きく鳴った。

塀の内側に、見慣れた斑模様が見えた。

「サスケさん……」

いつもより、近い。

「思い切ったことするなぁ」

サスケは笑っていたが、厳しい目をしている。

僕は返事をしようとして、代わりに座り込んでしまった。

尻尾は勝手に足と足の間に巻きついた。

「家出か?」

「……わかんない」風が吹き抜けた。

塀の上の埃が少しだけ舞った。

「猫はな」
それだけ言って、また止まった。

僕は下を見た。

泥のついたへこんだ空き缶があった。

暗い。

「半年もすりゃ、成猫だ」

サスケの声はさっきより低くなった。

「うん……」

「母親は春と秋に赤ん坊を産む」

斜め下にある自分の尻尾に目を落とした。

僕は尻尾の先を噛んだ。

砂の味がした。
サスケは、それを見てから話を続けた。

「だからな」

「次の赤ん坊ができる前に巣立つ」

慰める声ではなかった。

遠くで車が一台通り過ぎていく。

「心配かけちゃいけねえ」

それだけだった。

「うん……」
声は出したものの返事にはならなかった。

「帰るぞ」サスケが言った。

僕の後ろに回って、頭で尻を押された。

踏ん張れずによろけて一歩、前に進んだ。

外の空気は少し冷えていた。

さっきまで暑かったはずなのに。

「お前、贅沢だな」サスケが言う。

「人間に囲われて、布団で寝て」

「帰ったらあったかいとこで転がれ」

僕は返事をする代わりに足を早めた。

サスケの鼻歌が後ろから聞こえる。

♪ぼくも帰ろ おうちに帰ろ

音程は合っていなかった。

灯りが一つ、ついている。

風呂場の窓から中の匂いがした。

僕は立ち止まった。

一瞬だけ。

それから、塀を降りた。

肉球に残ったざらつきを舐めると、台所へ行った。

残ったドライフードを齧る。

少し湿気ている。
ざらついた砂の味だけが口に残った。

ハチ兄が僕の後ろで
「おまっ。おまっ。」と連呼していた。

「ごめん……」

気まずかった。

ハチ兄は何か言いたげだったけど、僕の額をひと舐めすると、
「心配させやがって」と言った。

カナタとママ、パパは、僕が帰ってきたことに驚いていた。

もう帰っては来ないだろうと諦めていたらしい。

寝ているカナタの枕元に行って小さく声を出すと、カナタが飛び起きた。

相当眠かったのか、僕の頭に手をのせて
「良かった」
といって笑うとまたすぐに眠りについた。

カナタの笑った顔を見て、初めて心がちくりと痛んだ。
「ごめん……」

伝わらない代わりに、僕は枕の端で丸くなった。

【次回】俺っちハチ ハチ兄の独白です


いいなと思ったら応援しよう!

かなたなか よろしければ応援お願いします!頂いたチップは大事に使わせて頂きます。