ある春の日のこと(第8回古賀コン参加作品)

 父の運転する漁船に乗って、水平線から昇る金色の太陽を見たことがある。あれが茜にとって、父と過ごした最後の記憶だった。
「俺は彫刻家になる。美を追求してみたいんだ」 
 ある日、父は突然にそう言って姿を消してしまった。孤高の天才として生きるためには芸術以外は要らないのだと。そのとき私は10歳だった。あれから11年が経ち、茜は母の反対を押し切って父の葬式に出席しようとしている。
 千葉から父が亡くなったという瀬戸内まで向かうのはそこまで苦労ではなかった。旅費や諸々の金は向こうの人が出してくれるというし、父の世話人だという速魚(はやめ)さんという女性が道のりを案内してくれたからだ。
「お父さんには私だけでなく、街全体が随分お世話になりました。彼は私たちのヒーローなんです」
 彼女はそう言っていた。なんでも、彼女たちの街は山に囲まれた小さな港町なのだがあるとき大きな山火事が起こってしまい、それが街にも広がったのだとか。すっかり荒廃してしまった山と、悲しみに暮れる人々を見た父は涙を流し、一心不乱に仏像を彫り続けたのだとか。
「家族を失った私にとって、その仏像は何よりも心の支えになったんです」
 そんなことを、速魚さんだけでなく葬式であった多くの人から言われた。老若男女、多くの人が詰めかけた葬式はつつがなく進行した。ほとんどのことはこの街の人々がやってくれたので、遠方から訪れた21歳の小娘は座ってるだけでよかったのだ。
 茜がやったことと言えば、父への感謝や冥福を祈る声に答えることぐらいだった。
「ええ」とか「そうでしたか」などと相槌を打ちながら愁嘆場を見回す。
 速魚さんが教えてくれた。父は病に冒されながらも街を愛し街に愛され、最期までみんなのために仏像を彫り続けていたのだと。
 そう聞いたときは嘘か人違いを疑っていたけれど、こうしていると本当なのだと実感させられる。
 葬式を終えて宿に戻った茜は、部屋の文机に置かれた父の遺品を見る。
 ゲーテの『ファウスト』と、エーゲ海の地図。その端に書かれた「人間として出来上がりたい」という言葉。それだけが父の残したものだった。
 宿は浜辺からは離れて、山麓に位置している。窓から顔を出せば、右手の方には山火事の痕が色濃く残る山が、それでも生の気配と共に聳えている。かつては渡り鳥の住処であり夏になればよく見れたというが、山火事以降は見れなくなったそうだ。広がる灰色の街の向こうには藍色の海が春の日を浴びて輝いている。
 茜は広縁で茶を啜る。
 最初は、父を非難するつもりで来た。どうして自分たちを捨てたのか。どうしてすべての縁を切って赤の他人として生きることを選んだのか。そして、人の悲しい習わしから逃げるためにもここへ来た。しかし父は街の人々から愛されており、とてもじゃないが恨み言を言うことはできない。どこに行っても悲しみはついて回るし、母の元を離れたからといって茜の人生が淋しいものでなくなるわけでもない。茜はそんな自分がひたすら哀れだ、と唇の端だけを歪ませて笑う。
 父への愛憎をもてあまして茜は、それから何度か湯に浸かり風呂をかき回しては、春のかぼそく淡い暖気にただじっと身を浸していた。

 夕映えが西の空を染めた頃、茜は宿の周りを散歩することにした。
 山から港へと流れる小川に沿って歩き、気づけば山の中腹まで来ていた。山鳥が忙しなく鳴きかわし、滔々と流れる川とコーラスしている。春の息吹がそこかしこで声を上げている。
 ふと、道の先に女が立っていることに気づいた。清い流れが湾曲して小さな淵になっている辺りだ。
 暗色の服に身を包んで、茶髪を長く伸ばした女は呟く。
「帰らないといけない」
「帰るって何処へ?」
 茜は思わず問いかけた。
「分からない」と、女はそう言った。「かつて、森だった」
 女は、火に焼かれたという山を見つめながら、虚空に視線を彷徨わせている。
 はたと、思い出すことがあった。昔に読んだ本で、渡り鳥は編隊飛行をすることで効率的に長距離を旅することができるのだと書いてあったはずだ。先頭の風を受ける役目を交代しながら飛ぶのだと。そうすることで飛行力を補い合い、孤高の天才でなくとも長距離を旅することができる。しかし、そうした果てに目指すものは、もう焼け落ちて何処にもない。あるのは焼け残った木々が今にも倒れそうになりながら立ち尽くす禿山だけ。
 荒涼とした山に視線を向け、もう一度戻すと女はどこにもいなかった。
 どこからか鳥の群れが飛び立つ。上空を数度、ぐるりと旋回した後に群れは列をなして何処かへ飛び去っていく。
 あの群れはどこに行くのだろうか。どこへ帰るのだろうか。あの空の向こうへ飛んでいくというのなら、この行き場のない怒りも連れて行ってくれないだろうか。
 疲れ果てた体を山に横たえた。街の喧騒も今は遠い。木々の切れ間から空が見える。背中越しに土の湿り気が体を濡らす。 
 船や家屋から漂う上品な木の匂いではなく、青臭い草熱れだけが濃く充満している。 
 ぽつりと、雫が額を濡らした。
 降る雨の冷たさがもてあました感情で火照った体に心地いい。 
 息を吸い込んで、胸を膨らませてからゆっくりと吐き出していく。鼓動に合わせてゆっくりと。それから、鳥の鳴き声、風のざわめき、じんわりとした土の呼吸……。顔を横に向けてみれば、茜の指は土と一緒に雨の作る水たまりに沈んでしまっている。茜の体だってそうだ。この雨の前では、土も、木も、草も、茜の体も、みな同じようにしとどに濡れて、みな同じように雨に匂う。すべては藍色に溶けていく。
 この雨は土に染み込んで、地下水となって山を駆け巡り、河となって街を流れ、そうして海に注ぐのだろう。海に注いだら、陽に照らされて蒸発し、雲となって風に流され、山にぶつかって雨を降らせるのだろう。
 どれほどの間そうしていたのか、きづけば雨は止んでいる。
 茜は街を一望した。町も遠景も夕陽の光の中に沈み、総ては一つに感じられた。遥かに望む湾が、夕映えを反射して燦々と煌めく。水平線の向こうへ金色の日輪が沈みゆく。
 美しい。そう思った。
 ああ、時よとまれ。世界は美しい。
 ふと、左手の山々の中でたった一つ、飛び抜けて高い峰があることに気づいた。鮮やかな空と対照的に暗く陰る山々はその峰以外目立つことはない。それでも、自分と草木禽獣と天地に違いがなかったように、山も、街も、海も、違いなんてありはしない。春の息吹はそこかしこで声を上げ、生の営みを育んでいる。
 茜は帰途に着くために歩き出した。足取りは軽かった。
「世界は広大だわ」

 茜は悲しさも嬉しさも背負って街まで連れてきた。通りがかった駅舎前の広場では、水道から水が流れっぱなしだった。宵の口を迎えた街に人は少なく、それに気づくものは居ない。そばを人が通ることはあったけれど、誰も閉めない。茜は水道を通り抜ける間に、蛇口を回した。それはごく自然な動作で、茜自身の無意識だった。
 宿への帰り道の、ごく一幕でしかなかった。
 その夜は風が強く、夜空はすきと澄みわたっていた。闇に沈む室内に月が冴えて冷涼と照らす。布団に体を横たえる茜の頬の、淡い涙の跡をぼうと浮かび上がらせる。
 茜は両眼から透明な雫を零しながら微笑み、春の夜に眠っていた。ただそれだけであった。

 

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