無言という繋がり。
無言という繋がり。
僕は、小さい頃から、自分のことを伝えるのが、嫌だったし、苦手だった。
劣等感があった。
だから、人の輪の中にいても、自分だけ自ら疎外されるように、人の輪の中には入っていこうとしなかった。
どうせ、自分なんてって気持ちがあったから。
自分を出すことも嫌だったし、人が、こんな自分なんて認めてくれるはずもないとも、思ってきたから。
だから、自分を押し殺すように、息を殺すように、できるだけ目立たないように、生きてきた。
悲しさだってある。
悔しさだってある。
自由に生きることを許されなかった所以である。
だから、ずっと、口数が少なかった。
大人しいと言われて、成長してきた。
『自分だって、悔しいんだもん。』
意識して、意図的に、そんな自分になっているわけではない。
なりたくて、なっているわけではない。
そんな、心の声や叫びが、人との関わりを持つ中で、時折、顔を出すのである。
悲しみや怒りとなって。
そこには、人間が人間であるということの、苦悩にも繋がっているのかもしれない。
もしかしたら、人間ならではの、エゴの歪みが生み出した姿なのかもしれない。
そんな悲しみが、無言の人間の姿を作り出すのではないかと、感じてしまうほどなのである。
無言の中で起こる、人間が生きてるんだという表現が、伝わる人には伝わり、
そして、それを実感した時に、自分も生きてるんだという実感をすることができる。
人間は、言葉を覚えた。
言葉を覚えたが、人の心に興味を失った。
そんな、人間のエゴとエゴの対立を、自分は、シャイで無口な人間になることで、
1つ、実感することが、出来たのではないか、
と思ってしまうのである。
改めて、自分が人と繋がる喜びを感じ、
そして、『言葉ではない』、
人間の繋がりを実感できる大切さを学べていることに、
感謝を向けてみたいと思うのである。
