『中央林間』メンチカツと、パンの耳。未熟だった私を育ててくれた駅
実家から逃げたかった。ただ、それだけだった。
18歳の私は、母親と顔を合わせれば喧嘩ばかり。「自立」という言葉を盾にして、小田急線と田園都市線が交差する「中央林間」で一人暮らしを始めた。
学校にも渋谷にも新宿にも1本でいける、便利な乗り換え駅。
小田急と田園都市線、双方向から流れる人波が必死に行き交う、あの通路。
私は一度小さく息を呑んで、その奔流に横から合流する。
吹き抜ける風。コンクリートに反響する、無数の足音。
迷いなく急ぐ大人たちに紛れる緊張感が、当時の私にはたまらなく格好よく見えた。ようやく、自分も「大人の世界」の一員になれたような気がしていた。
引っ越し初日。
ガスの開栓に来たおじさんにおずおずとお茶を出した。
「人が来たらお茶を出しなさいって、お母さんに教わったんでしょ。ちゃんと言いつけ守ってて偉いね。」
おじさんの良かれと思って言ってくれたであろうその言葉が、私には無性に悔しかった。
逃げてきたはずなのに、お茶の出し方もタイミングも、母の教えが染み付いている。それがたまらなく嫌だった。
今思えばかなりひねくれていた。
早く大人になりたかった。でも、中身はただの「未熟な子供」だった。
十分な仕送りをもらっているくせに、服やアクセサリーやゲームに使い込み、月末には残高が数百円になる。
駅前の東急ストアで「もやし」だけを買い、「節約してる私、偉い」と自分に酔っていた。
そんな私の「浅はかさ」を、街の人たちは全部わかっていたんだと思う。
「頑張ってね」と飴をくれる東急ストアのお姉さん。
「今日何も食べてないでしょ」と、厨房にサンドイッチを隠してくれるバイト先のカフェの店長。
「お肉も食べなよ」と、メンチカツを内緒でおまけしてくれる揚げ物屋のおばさん。
揚げたての油の匂いがする、茶色の紙袋。
その温かさが、情けなくて、手にも心にも沁みた。
「これ、今日の分ね」と、パンの耳を毎日持たせてくれるカフェの隣のパン屋さん。
しっとりしたパンの耳は、パン屋のおばさんのようなあたたかくて優しい味がした。
お金がないわけじゃない。私が、だらしないだけなのに……。
次第に罪悪感が膨らんでいった。
ある日、私はいつものようにパンの耳を持ってきてくれたおばさんの前で泣き崩れた。
「ごめんなさい。仕送りはあるんです。自業自得なんです。私が使いすぎてるだけなんです。みんなを騙してるみたいで……」
支離滅裂だった。呆れられると思った。
けれど、おばさんは笑って言った。
「そんなこと、みんな知ってるわよ」
驚いて顔を上げた私の頭を撫でながら、おばさんは続けた。
「お金があるかないかなんて、関係ないの。
あなた、お母さんに大事に、厳しく育てられたでしょ?見てればわかるわ。
私たちはね、親御さんから可愛い子を預かってる気分なのよ。お母さんだと思って甘えなさい」
こっそり話を聞いていたカフェの店長も、
「じゃあ僕はお父さんだね、本当はお兄さんが良かったんだけど…」
と笑わせてくれた。
その瞬間、自立という名の「独りよがりな虚勢」が、音を立てて崩れた。
強風の日に、東急ストアで安売りしてたカラーボックスを買って自転車に積んで、四苦八苦してるところを助けてくれた、同じアパートの親子。
真夏にニンニクをたくさん買って、腐らせて異臭騒ぎを起こした私を笑って助けてくれた大家さん。
この街の人たちは、そんな私の背伸びも、愚かさも、全部わかった上で私を支えてくれていた。
今思うと本当に恥ずかしくて申し訳ない。
中央林間は、ただの乗り換え駅じゃない。
あの急ぎ足の人達が行き交う無機質な連絡通路を、一歩外に出れば、そこには驚くほどお節介で、温かい「日常」が流れていた。
数年後、卒業とともに中央林間を離れる日。
ホームに入ってきた始発の電車に乗り込む前に、大きく深呼吸をした。
「ありがとうございました」
心の中で呟いたそれは街の人へ。そして、反抗ばかりしていた私に「礼儀」を叩き込んでくれた母への、ようやく見つけた本音だった。
私がこの街でどんなにバカな事をしても、みんなに助けてもらえたのは、母が口うるさく言ってたことが、ちゃんと私の中に残っていたからだ。
反抗して家を出たはずなのに、結局、母の教えにずっと守られていた。そのことに気づいて、駅のホームで、やっと素直になれた。
発車のベルが鳴る。
子供から大人へと乗り換えるための、ずいぶんと長い待ち時間を過ごさせてくれた駅。
動き出した電車が地下の暗闇を抜け、やがて地上に出る。パッと差し込んだ光の中に、見慣れた街並みが現れては、遠ざかっていく。
メンチカツの温かさと、パンの耳の優しい食感。
あの味を忘れない限り、私はどこでだって生きていける。
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