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【短編小説】『雨宿りは迷いの森のログハウスで。』#6 青いカーテンと、天使の梯子

【閲覧注意】
本作には、家族間の葛藤や精神的な虐待(激しい罵倒)、ストーカー被害など、人によっては強いストレスを感じる内容が含まれます。
繊細な方や、フラッシュバックの恐れがある方は、ご自身の判断で閲覧をお控えいただくか、十分にご注意ください。

その喫茶店は、海が有名な街にあった。 

しかし、海からは遠く、山側の森の中にひっそりと佇んでいた。 

この街と言えば、海、そしてサーファーが有名なのに。 

私は今、実家のあるこの街に戻ってきている。 

都内で一人暮らしをしていたが、ある問題が起きて、逃げるように帰ってきたのだ。


ここ一ヶ月、私を執拗に追い詰めているもの。 

それは、正体不明のストーカーだった。 

始まりは、一本の非通知電話だった。 

「……もしもし、今日はワンピースなんだね、似合ってるよ」 

それだけ言って、電話は切れた。 

こちらが何かを問いかけても、ただ無機質な切断音が響くだけ。 

郵便受けには、おびただしい数のハートマークで縁取られた、幼い女の子のイラストと支離滅裂な手紙が投げ込まれるようになった。 

 何より恐ろしいのは、そのタイミングだ。 

自宅のドアを開けた瞬間に、決まって携帯が震え出す。 

まるで、私の動きをどこかで見張っているかのように。 


さっきもそうだった。 

日曜日の朝、近所のスーパーで買い物を済ませてアパートに戻った途端、画面に「非通知」の文字が躍った。 

恐る恐る耳に当てると、粘りつくような声が鼓膜を撫でた。 

『おかえり。今日も可愛いね。ちゃんとカーテンを閉めてて、えらいよ。郵便受け、お手紙でいっぱいだったでしょ? ちゃんと読んでくれた?』 

 「……誰っ?」 

震える声で叫んでも、返ってくるのはプツリという冷たい音だけ。 

逃げ場のない恐怖に耐えきれず、私は震える指で父に電話をかけた。 

事情を話すと、父は沈痛な声で「すぐに実家に帰ってこい」とだけ言った。


そして、今。


 一度実家に帰った私は、

雨の中、実家を飛び出してここにいる。 

急に降り出した雨に、傘も持たず飛び出した私は、雨宿りをする場所を探すしかなかった。

そんな時、目の前に突如として現れたのがこの店だった。 


もちろん、魔法のように出現したわけではない。けれど、当時の私にはそう思えてならなかった。 

昔からあるであろうその喫茶店は、森の中にひっそりと佇む、太い丸太を組み上げた重厚なログハウスだった。

使い込まれた木の壁は飴色に輝き、雨に濡れていっそう深い色味を帯びている。


高い天井を見上げれば、剥き出しの梁が力強く空間を支え、

室内には木の芳醇な香りと、どこか懐かしい薪ストーブの匂いが微かに漂っていた。 

いつからあるかも知らない。 何回か来たような気もするが、思い出せない。

単なるデジャヴなのだろうか。


店主が、アイスミルクティーを持ってきてくれた。 

清潔感のある白髪を後ろで束ね、柔らかな花柄のワンピースを纏った、少し祖母に似ているけど、どこか違う、上品な高齢の女性だった。

季節は初夏。 温かいものより冷たいものが美味しくなってきた頃で、店主に勧められるがまま頼んだ。 

私は普段から人の話をあまり聞かないが、この店主の言うことは間違いないとなぜか思った。 

彼女が淹れたミルクティーの香りは、私が一番好きな茶葉の配合と、驚くほど一致していた。 


「疲れた顔をしているわね……。
雨宿りだけじゃなくて、少し心を休めていってね。
今は土砂降りの最中にいるみたいに見えるけど、止まない雨はないのよ。
大丈夫、ゆっくり温まっていってね」 

店主はそう言って、手作りのクッキーをサービスしてくれた。 

まるで、私が言葉にできずに飲み込んできた悲鳴を、すべて汲み取ってくれているかのような、静かで温かい声だった。


疲れるのも無理はない。 

実家にストーカーの相談をしに帰ったというのに、

心配してオロオロしながら、

「弁護士か警察に相談しようか」

と言ってくれた父に対し、

母はいつものように怒鳴り散らしたのだ。 

「どうせ気のせいよ! 弁護士も警察も大袈裟!面倒な事を増やさなさないでよ!!」

 母の罵声が耳の奥で蘇る。 

「 非通知だからって声でわかるでしょ? わからないの? あんたがそこら中で引っかけてきた男の一人なんじゃないの?色目使うからこうなるのよ!気持ち悪い!」 

身に覚えのない言葉を次々と浴びせられ、

私は「もういい!」と叫んで家を飛び出してきた。


昔から母はそういう人だった。 

高校時代、女友達と普通に遊んで夕飯の時間を過ぎて帰宅した時のことが、今でも忘れられない。 

リビングで夕方のニュースを見ていた母は、玄関を開けた私に平然と言い放ったのだ。 

「どうせ、乱交パーティーにでも行ってたんでしょ」 

唐突すぎて意味がわからなかった。

テレビの画面では、ちょうどその話題が流れていた。

だからといって、なぜそれが自分の娘に結びつくのか、理解の範疇を超えていた。


昔から、私が洒落ることを母は毛嫌いしていた。 そのせいで中学校までは、母の意向でずっとショートカットを強制されていた。 

「髪の長い女は嫌いなの」 それが母の口癖だった。 

だから私は、反抗期の訪れとともに、意地でも髪を伸ばし始めたのだ。

テレビで少しでも色気のあるシーンが流れれば、「あんたはこんな娼婦みたいな真似、絶対にするんじゃないわよ。気持ち悪い」と吐き捨てられた。

可愛い服を選ばせてもらえるはずもなく、少しでも着飾ろうとすれば、

「色気づいて気持ち悪い」と蔑まれた。 

持ち物や洋服はいつも青や黒を選んだ。

本当はピンクが好きなのに。


だから、私は高校デビューをした。 

今まで抑え込んできた鬱憤をすべてファッションへと叩きつけたのだ。 

そのせいで、確かに男の影は増えた。 

ラブレターももらうようになったし、ポケベルしか無かったその時代、家に電話がかかってくるようになった。

同時にいたずら電話も増えた。

詐欺なのか本物なのか今となってはもうわからないが、芸能界のスカウトの電話までかかってくるようになった。

 母が電話に出たときは最悪だった。 

「あんた、うちの娘に変なことを吹き込むつもりなら、警察に通報してやるからね!」 

受話器越しに相手を容赦なく脅しつける母。 

何も知らずに電話をかけてきた相手に少し同情した。


「それは大変だったわね。辛かったでしょう」

 店主は私の話を静かに聞き終えると、包み込むような慈しみを持ってそう言った。 

「……お母さまの言動は、少し『心配』という言葉では片付けられないものがあるわね……」 

短い言葉だったが、とても優しく私に寄り添ってくれた。

その言葉に、張り詰めていた糸がふと切れたような気がした。 


その時、テーブルの上で私の携帯が激しく震え出した。

画面には、またしても「非通知」の文字。 

心臓が跳ね上がる。

震える手で通話ボタンを押すと、あの低く、粘りつくような声が聞こえてきた。

 『まだお家に帰らないの? どこに行ったの? さみしいよ……』 

恐怖で声が出ずに震えている私から、店主は迷いのない手つきで携帯を取り上げた。 

「もしもし」

 店主の声は、先ほどまでの柔らかさが嘘のように、冷徹で凛とした響きを帯びていた。 

「もしもし。……あなた、自分が何をしているか分かっているの? 
非通知なら正体がバレないとでも思っているのかしら。
通信記録を照会すれば、あなたの身元を特定するのはそれほど難しいことではないの。
これ以上、自らの罪を重ねて人生を台無しにするような真似はやめなさい」 


受話器の向こうが絶句しているのが、傍にいる私にも伝わってきた。  

店主が言い終わると同時に、電話は向こうから切れた。 

 

「本当は、お母さまにこそ、この言葉を言ってほしかったわね。
……今まで、たった一人でよく耐えてきたわね」 

 店主の言葉が、私の胸の奥に深く突き刺さった。 


そうなのだ。 母は、あまりに矛盾していた。 

外では正体不明のストーカーに怯え、家に戻れば母の呪いのような言葉に刺される。

私の人生は、一体何なのだろう。 

何事もない平穏な日常の中でさえ、執拗に私の心を削り、トラウマを植え付け、 

本当に助けが必要な時には「あんたが悪い」と突き放して何もしない。


親の愛とは、一体何なのだろうか。 

産んで、成人するまで飢えさせずに食べさせれば、それで親としての務めは果たしたことになるのだろうか。 

ただ生かしておくだけなら、それは「愛」ではなく「飼育」だ。 

私の心に土足で踏み込み、泥だらけにする権利まで与えた覚えはないのに。 

母親への割り切れない思いを抱えつつ、私はもう一つの不安に駆られていた。 


さっきの電話で、ストーカーが逆上しないのだろうか……。 

一体、誰なのだろう。 本当に心当たりがない。同じアパートの住人なのだろうか。

それとも、どこかで私を見かけただけの赤の他人? だとしたら、どうやって私の番号を手に入れたのか。 

考えれば考えるほど、背筋に冷たいものが走る。 何にせよ、私に何の恨みがあるというのか。 

なぜ、私がこんな目に遭わなければならないのか。 

理不尽な怒りと恐怖が、胃のあたりをぎゅっと締め付ける。 


都内のアパートの、あの青いカーテンを思い出す。 

本当は、心ときめくような淡いピンクのカーテンにしたかった。 


でも、外から見て「女の一人暮らし」だと悟られないよう、あえて選んだ無機質な青。 

自分の好きな色さえ自由に選べない、怯えた日々。 

もしあのストーカーが、私のこの「怯え」を逆手に取って、さらに追い詰めてきたら……。 


私の頭の中は母親への不満と、ストーカーへの不安でいっぱいだった。 


出されたアイスミルクティーをちびちびと口に運んだが、今の私には全く味がしなかった。 

どれくらいの時間が経ったのだろうか。 


答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。


 私の不安を見透かしたように、店主はカウンターの奥から電話機の子機を差し出した。 

「……はい」

 恐る恐る耳に当てると、受話器からは落ち着いた男性の声が聞こえてきた。 

「〇〇署の生活安全課です」 

警察だった。

驚いて顔を上げると、店主は優しく微笑んで頷いた。 

 「ストーカー被害のお話は、店主の方から伺いました。大変でしたね」  

警察官は、現在の状況から今後の対応について丁寧に説明してくれた。 

実害が出る前では警察も動きにくいという現実的な話もあったが、パトロールの強化や具体的な生活上のアドバイスを提示してくれた。 

「もし、都内の自宅に戻るのが不安であれば、帰宅の際に警察官が同行することも可能です。
最寄り駅の前にある交番に立ち寄って声をかけてください。こちらから連絡を入れておきますから」


 「……ありがとうございます」

 
電話を切った後、私は泣いた。
涙が次から次へと溢れてきて、止まらなかった。

ずっと、怖かった。  いつ鳴るかわからない電話に怯え、自分の部屋でさえ息を潜める日々。  

誰にも相談できずに、どこの誰なのか疑心暗鬼になる日々。 

けれど今、店主が盾となってその恐怖を撥ね退け、警察という確かな繋がりが私を守ってくれている。 

その安堵が、堰を切ったように涙となって溢れ出した。 

それと同時に、どうしても拭えない母への思いが胸を焼く。 

なぜ、一番の味方であってほしい母は、あの店主のように私を守ってくれなかったのか。 

なぜ、私を傷つける言葉ばかりを投げつけたのか。 

「あんたが悪い」と突き放された孤独と、今ここで受け取っている優しさの差が、あまりにも残酷で、悲しかった。


そして、ひとしきり涙を流したあと、私は決意した。  

携帯番号を変え、ストーカーにも、そして母にも居場所を教えずに引っ越そう。


もう怯えて過ごすのは嫌だ。


 店主は、私の決意を見届けるようにアイスミルクティーのグラスを下げた。 


「お母さまのことも、ストーカーのことも、あなたはもう十分に背負ってきたわ。

でもね、誰かの身勝手な言葉で、あなたの価値が決まるわけじゃないのよ」 

店主は私の目を真っ直ぐに見つめた。 

「あなたは、ただあなたとして幸せになっていいの。

過去の呪縛を解いて、新しい場所で、自分のためだけに深呼吸をしてみて。

この雨が上がれば、きっと新しい道が見えるはずよ」 


その言葉に、ずっと重く沈んでいた心が、ふっと軽くなるのを感じた。


外を見ると、いつの間にか雨は小降りになり、雲の切れ間から柔らかな光が差し込み始めていた。


「ふふ。噂をすれば、雨が上がったわね」  

店主が穏やかに笑った。 

「大丈夫。あなたは自分が思うより、ずっとしなやかで強いもの。 

こんな雨の中、この店を見つけられたんですもの。
あなたには、自分を助ける力があるわ。 

だから、もう心配しなくていいのよ。

あなたのことをそのまま受け入れてくれる場所は、この世界のどこかに必ずあるから」  


そう言って、彼女は私の背中を優しく押した。  
店を出ると、雨はすっかり止んでいた。  

森の木々から滴る雫が、差し込み始めた陽光を浴びて宝石のようにきらめいている。

坂道を下り、視界が開けた先には、雨上がりの澄んだ海が広がっていた。   


そこには、どこまでも深く、自由な「青」があった。 

母に押し付けられた過去でも、自分を偽って選んだカーテンの青でもない。

すべてを洗い流し、新しい世界へと繋がる、旅立ちの青だ。 

雲の切れ間から幾筋もの光の束が海面へと降り注ぐ、美しい「天使の梯子」がかかっている。

その神々しい光景を見つめていると、胸の奥に澱んでいた重苦しい霧が、潮風に洗われて消えていくようだった。  

母の言葉に傷つき、怯えて逃げ回るだけの自分は、もうここに置いていこう。  

誰に何を言われようと、私の人生は私のものだ。

新しい場所で、自分の足で立ち、自分のために呼吸をして生きていく。

そう決めた心は、驚くほど静かで、澄み渡っていた。  


不意に、背後から聞き慣れたエンジン音が近づき、一台の車が傍らに止まった。 

「……ここにいたか」  

運転席の窓を下げて顔を出したのは、父だった。 

「お父さん……?」 

「お前が飛び出した後、母さん、一応警察に電話したらしいぞ。 
……あんな言い方しかできない人間だが、あれなりに心配はしているんだ」 

父の言葉に、私は一瞬、呆れたような溜息を吐いた。 

今さら、何なのだ。

あんなに酷いことを言っておいて。 

けれど、その不器用で歪な形をした関心を聞いても、私の心はもう凪いだままだった。 

そんなやり方でしか娘を案じられない母を、ただ遠く、別の世界に住む人のように感じていた。 

 「アパートに一緒に行こうか? それとも実家に帰るか?」 


父なりに気遣っているつもりなのだろう。

その二択のどちらにも私の居場所なんてないことに、この人は気づいていない。 

私は助手席に乗り込み、真っ直ぐに前を見据えたまま答えた。 


「駅までで大丈夫」

車の窓を開けると、濡れたアスファルトと潮の香りが混ざり合った、新しい季節の匂いがした。

 
今度は、セキュリティのしっかりした安全な場所で、私だけの新しい生活を始めよう。 

そこでは、誰に遠慮することもなく、一番好きなピンク色のカーテンをかけよう。 


窓を開ければ、今日見たような、どこまでも自由な旅立ちの青空が広がる、そんな場所で。


終わり


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