voyage(2016autumn)
※2014年発行の同人誌「つめたいキス」からぬるっと続いております。未読の方は、何かまた嵐が栫くんに遊ばれていたらしい……くらいの認識でお読みいただけますと幸いです。
天啓、というものがあるならこんな感じか。
そう思うくらい、自然に、そして完成されたかたちで、それは嵐の内側に訪れた。
「えっ」
声を上げ、あたりをきょろきょろ見回した。
「どうしたの」
目の前にいる栫が尋ねた。
「今、音楽鳴った?」
「音楽? 何も聞こえなかった」
「すごく鮮明に、つーかむしろ脳内に響いたみたいな……」
たったの今まで、やわらかく問い詰められていたというか、答えが見つかりそうにない質問をされていたので、思考回路が逃避をやらかしたのだろうか? にしては、とても美しい優雅な調べだった。あれを突然思いつくような音楽的素養はまずない。
「いつもの特異体質じゃないの」
「そーゆー感じじゃないんだよ、そもそも周りに誰もいねーし……お前、何か頭ん中で音楽思い浮かべてた?」
「いや」
栫はかぶりを振った。
「あなたのことを考えていたけど」
リアクションしない、しないぞ。
「そもそも音楽って? 歌? 今も聴こえてる?」
「もう聴こえてない。歌詞はなくって、ピアノのきれーな音楽」
「どんな?」
「どんなって」
「歌ってみて、ハミングでいいから」
「やだよ!」
「どうして」
「再現度に自信ないし、第一……こっぱずかしい」
「でも小一時間前までもっと」
「分かってるからそれ以上言うな!」
歌って、と栫は繰り返した。
「やだって」
「そうしたら、さっきの質問は不問にしてあげる」
なぜかその幻聴(かも)にこだわるので、嵐は「もう忘れちゃったよ」と前置きしてしぶしぶ覚束ない鼻歌で旋律をたどる。あの清澄なイメージは鮮やかに残っているのに、調子っ外れもいいところだった。頭の中のものをかたちにする、というのは、何であれ難しい。嵐は、思いどおりの砂時計が作れた試しなんて、本当にただの一度もない。消え入りそうなメロディはものの数秒、栫は笑いも、眉をひそめもせず「ふうん」とだけつぶやいた。
「だからやだって……」
「それって、ひょっとしてこれ?」
嵐の抗議を遮り、携帯を取り出していじると、耳の横に近づけてきた。
美しい刺繍を、音符でなぞるような音楽が聞こえてくる。
「……これ! そう、これ! 何で分かった?」
「今教えてもらったから」
「いや全然違うし」
正解を聞いた後だと、完全に別物でしかなかった。自分より栫のほうがよっぽど特異体質だと思う。
「で、それ、誰の曲」
「バッハ」
「はあ」
聞いたことくらいはある、さすがに。けれどこれまでの人生や生活とあまりに無縁の名前すぎて、嵐は間の抜けた反応をしてしまった。何だろ、音楽の授業で聴いた曲が急に記憶のツボを押されてよみがえったとか?「思い出した」感じじゃ絶対なかったんだけど。本当に、天から降ってきたような。「what」の謎は解けたが「why」が深まった。
「何なんだろ?」
明確な解を求めたわけではなかったが、栫の返事は不可解極まりなかった。
「口の中を見せて」
「はあ?」
「いいから」
顎に手が伸ばされる。触れられると、言葉よりさらに、嵐は抗えなくなる。それをよく知っている手つきだった。戸惑いながら唇を半開きにすると「もっと」と促された。お前も何なんだよ。口腔に、水平に差し込まれる視線。やっぱ、恥ずかしいもんは恥ずかしいって。
栫はあっさり手を離すと、言った。
「詰め物してる歯がある」
「それがどうした」
「人間の身体には電気が流れてる」
とこれまた唐突な言葉が出てくる。
「だから?」
「人体がアンテナになり、金属の詰め物が検波器になり、頭蓋骨を伝わって音が聞こえる――要は鉱石ラジオと同じ作用がまれに起こる、って聞いたことがある」
「うっそ」
「ほぼ都市伝説だろうけど、説明がつくとしたらそれなんじゃないかな。近くの電波塔……はスカイツリーか。そういえばきょうは太陽風の影響で磁気嵐が起こってるらしいし、乱れてるのかもね」
「え、じゃあ、俺の歯がすっごくたまたまの確率で、ラジオから流れた音楽を拾ったってこと?」
「そう」
栫はすこし笑った。
「いろいろ、珍しい経験をする人だね」
「あーもー腹いっぱいだよ。ふつーに生きてるだけなのにさ」
お前と関わった以上の経験なんてねえよ、とは言わずにぼやくと、「詰め物をセラミックにすれば」と、とっても現実的なアドバイスをいただいた。
それから数日経った。昼間は雨と風が強く、客足もなかったが作業には集中できるという複雑な一日の終わりに、栫が電話をかけてきた。
『この間の、ラジオの話なんだけど』
「うん」
『仮説を裏付けようと思って、あの日あの時間帯のラジオのオンエアを調べてみたけど、バッハの曲がかかった形跡がないんだ』
「わざわざそんなもん調べたの?」
暇だな、と言いかけたが、そうだこいつ暇つぶしに息してんだよ、と思い直す。
「調査漏れじゃねーの」
我が身に起こった事案とはいえ興味が持てない嵐は適当に答えた。
「CMで使われてたのかもしんねーし」
『そうだね、関東の局しかチェックしていないけど、もっと遠くの地方の電波が何かの拍子に入っちゃったのかもしれない』
「自分で結論出てんじゃねーか」
『ところで、ボイジャーを知ってる?』
「え?」
『ボイジャー』
「え、あの、人工衛星の?」
バッハ同様、聞き覚えあんな、程度のレベルだ。
『正確には太陽系・外惑星探査機。一九七七年に打ち上げられて、今も時速五万四〇〇〇キロのスピードで地球から遠ざかっていってる』
栫の話はいつも、脈絡がつながるまで時間がかかる。今度はどこに着地するつもりなんだろう。
『そのボイジャーに、ちょっとした不具合が生じたって記事を読んだ。地球とデータの送受信を続けてるんだけど、エラーが出て、修正した』
「そんな遠くて、できるんだ」
『一応ね。ただ、その信号の往復でゆうにまる一日以上かかる。エラーの起こった日にちを考えると、ちょうどあなたの歯からバッハが聞こえたあたり、真っ最中だったと思う』
「……え?」
『すごいね』
栫は、すくなくとも表面上は感心した口調で言った。
『二〇〇億キロ近く離れた探査機から音楽を受け取ったんなら、特異体質も極まれりだ』
いきなりそんな突飛な説をぶっこんでこられても、まったく頭がついていかない。
「なに、そのボイジャーは、バッハ流しながら漂流してんの?」
『流してはいない、けど持ってる』
「何で?」
『地球外知的生命体と出会った時のための自己紹介――大まじめな話だよ。五十五言語の『こんにちは』が入ったゴールデンレコード……そこに二十七の音楽も含まれてる。あなたが聞いた、バッハのプレリュードも』
天から降ってきたようだった、あの音楽。
与太話だ。あるいは栫のでっち上げかもしれない。でも嘘だのほんとだの言ったって仕方がない。嵐にとっての「ほんと」は、あの時、栫といる時にあの音楽が鳴った。それだけだ。
あの美しい音は、前奏曲なのだという。俺たちも、これから始まんのかな。まだ始まってないのかな。それとももう、何かが終わっちゃった後なのかな。全然分かんないな。
「宇宙人になんて、会えんの?」
『僕には何とも』
「毎日観測してんだろ」
『ちょっとジャンルが違うかな――いちばん近い恒星まで四万年かかるし、見届けようがない』
「暇つぶしのネタも尽きるな」
『一応、四十億年以内に遭遇する希望を込めてウラニウム238でコーティングされてるよ。半減期が四十五億年だから、それまでに文明を持った生命体が拾ってくれれば、レコードの年代を測定してくれるだろうって』
「桁が大きすぎてついていけねえ」
『そう?』
宇宙人に等しい男は平然と問う。
『現実はさておき、僕は別に、暇つぶしに困るとは思わないな――あなたがいれば』
「バカか」
嵐は言った。どんな顔してほざいてんだか、いや平気な顔だろ。知ってるよ。
「バカ、お前なんか二〇〇億キロ先まで行っちまえ」
『いいよ』
栫は答えた。
『どこまで旅しても、たぶんひとりには届く。……おやすみ』
相変わらず言いたことだけ言ってくれる。嵐は舌の先で金属が詰まった歯を探る。左上、奥。とてもいまいましいことに、それは栫とするキスを連想させた。
窓の外を見ると、鈍い雲が大方晴れ、星空の透明度はいつもより高い。嵐の後の夜。冴えた黄金の満月は、円盤みたいだった。ゴールデンレコード。遠ざかり続ける何か。嵐の、ポンコツなアンテナ。本当に聞きたい声は、そもそも放たれていないのか、それとも自分が受信できていないだけなのか。きっと四十億年先にも謎のまま。
とにかく、この闇の向こうに、遥か彼方、では言い表しきれない宇宙を、旅する航海者(ボイジャー)がいる。たくさんのハローと美しいうたを抱いて。見上げていると何だか奥歯がちりちりしてきたので、とりあえず早いとこ歯医者へ行かなければと思った。
