古関裕而とは、なにものなのか?

NHK朝ドラ『エール』を見ながら、https://www.nhk.or.jp/yell/

刑部芳則 著『古関裕而 流行作家と激動の昭和』を読む

https://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000034047915&Action_id=121&Sza_id=C0

 新型コロナウィルスによる中断をはさみながら、NHK朝ドラ『エール』が再開されている。窪田正孝演じる「古山裕一」は、8・15を迎えて、自分の作曲した音楽が若者たちを戦場に送り込み、その命を奪ったことに悩み苦しみ、曲が書けなくなったのが先週の終わりだった。
 わたしは戦後生まれだが、幼い記憶の中に「予科練の歌」や「露営の歌」(今回の朝ドラを見るまで、曲は知っていても題名は知らなかった)、「暁に祈る」(これも同様)は軍歌として残っていた。また、「記者の窓から ハンカチ振れば 牧場の乙女が花束投げる…   高原列車は、ラ・ラ・ラ行くよ~」という歌のフレーズも記憶に残っている。
 しかし、その作曲者が同一人物だということは、今回の朝ドラが始まって、NHKの宣伝番組で紹介されるまで、全く知らなかった。その作曲者が「古関裕而」という人物であり、生涯5000曲もの曲を作っていたことも初めて知って驚いた。と同時に軍歌(戦時歌謡曲)で、人々を戦争に煽っておきながら、そのことをどのように総括して、戦後、あのような明るい歌を作ることができたのかが、とても不思議に思い、朝ドラ『エール』を見ながら(結構、真剣に見ている)、刑部芳則(おさかべ・よしのり)氏の著書を読んでいる。氏は、『エール』の風俗考証を担当しておられる。

 表紙裏の紹介文を引用する。

古関裕而(1909~89)は忘れられた名作曲家である。日中戦争中、単歌「露営の歌で一世を風靡、アジア・太平洋戦争下のニュース歌謡や戦時歌謡を多く手がけ、慰問先でも作曲に勤しんだ。戦後は鎮魂歌「長崎の鐘」、東京五輪行進曲「オリンピックーマーチ」、映画「モスラ」劇伴音楽と、流行歌からスポーツ音楽まで数々の名曲を残す。戦争、そしてテレビの普及まで、昭和史を彩った彼の生涯をたどる。

 古関は三度、戦地へ慰問ということで赴いている。一度目は、昭和13年9月に上海・南京方面に軍の要請を受けて、行っている。このときも戦場で危機一髪で難を逃れているが、二度目はビルマ方面、そして三度目の「インパール作戦」の戦場が最もきわどかったようだ。その時の様子を本書から引用する。

 天国のジャワと地獄のビルマ
 シンガポールでの日程か終わり、ジャワに移動できると思っていたら、ビルマヘの移動を命じられたため、慰問団員たちぱがっかりした。なぜなら「ジャワは天国、ビルマは地獄」といわれており、ビルマ方面への道のりは危険か多かったからである。徳川夢声は胃潰瘍に罹り、海軍病院に入院したため、ビルマには向かわなかった。
 ビルマの首都ラングーンに到着すると、古関は一番大きな寺院であるシュエダゴンーパゴダに登った。黄金色に輝くパゴダを見て、エキゾチ″クな風物に感動している。古関は「ビルマ音楽と舞踊を幾つか紹介してくれたか、私にはどれも貴重な資料なので採譜したり忙しかった。これだけでもビルマに来た甲斐かあったと思った」という。
 ラングーンでの慰問か終わると、各駅停車の汽車でビルマ中部の旧王都マンダレーを目指した。マンダレーで慰問団は、雲南方面とインド方面とに分かれることとなり、古関は雲南方面に向かった。雲南班は、団長の小林徳次郎、歌手の内田栄一、奥山彩子、豊島珠江、浪曲の梅申軒鶯童、舞踊団の石井みどりら四名、東京放送管弦楽団の半数であった。
 最初に着いたメイミョウという町では、昼は40度近くまで暑くなり、夜には冬のオーバーを着なければ耐えられない寒さという、寒暖の差を味わった。慰問団はトラックに乗って移動した。シポーの町では地元の王様の邸宅でご馳走されたり、山岳民族カチン族の集落で小休止したり、炎暑のジャングルを抜けるなどの体験をした。ラシオという町に着いたときに、豊島珠江が盲腸炎になり軍の病院に入院し、慰問団が帰るまで別れることとなった。

 最前線での慰問
 ラシオから少し東北に行ったところには、「みどり温泉」と書かれた露天風呂があった。
そこから3時間程度でセイウンという町に着いたときには、日本語学校の生徒だちから「愛国行進曲」で歓迎を受けている。サルウィン河の傍らにあるタンロンは、中国との国境に近く、かつて大激戦かあったため道には無数の骨が散乱していた。
 中国との国境線があるワンチンの小川を渡ると、屋並が中国風へと一変した。芒市(ぼうし)での慰問を終えた後、大事故が起きた。その部隊にシボレーの新車のオープンカーがあり、奥山彩子と石井舞踊団の三名、浪曲三味線のおばあさんの5名が乗車した。古関たちはトラックで追走したが、高原地帯の坂道カーブで突然シボレーの姿が見えなくなった。
 崖下から「だすけて!」と女性の悲鳴か聞こえ、下りて行くと、運転手はオープンカーの下敷きになって即死していた。奥山たちは車から投げ出され、おばあさんが骨折した程度の軽傷で済んだ。古関にとって忘れられない事件であった。
 慰問団は、中国軍と対峙する最前線の拉孟に到着した。将兵たちは歓喜し、それを受けて事故後の女性たちも頑張った。最前線での慰問を終えると、再びラシオまで戻り、盲腸炎から回復した豊島珠江をつれて、帰路は汽車でマンダレーに向かった。マンダレーから南下してサジに到着すると、インド方面に行った慰問団と合流した。
 ラングーンで再び慰問をすると、今度はマレー半島を目指し、ペナソ飛行場を慰問している。ペナソ港の対岸のマレー半島に上陸すると、汽車でクアラルンプールヘ移動した。12月30日、クアラルンプールの駅で元気になった徳川夢声が、古関たちを迎えた。
 昭和18年の元旦は、慰問団全員で「君が代」や「1月1日」を合唱している。古関は、この後はジャワに行けると思っていた。だが、ジャワは楽天地で慰問団は不要」とのことで、慰問団は帰国することとなり、2月上旬、古関は東京に戻っている。

「若鷲の歌」
 東京に帰ると、昭和18年5月にコロムビアから東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌の作曲依頼がきた。海軍航空隊予科練習生を題材としたため、古関は土浦の霞ヶ浦(かすみがうら)航空隊に1日入隊し、起床から就寝までを見学した。古関は「若い少年たちの真剣で敏しょうな動作、勉強中の教官に対する熱心なまなざし、また航空計器等に対する慎重な取り扱いと探求心あふれる態度には、何か打たれるものがあった」という。
 西条八十が作詞した「若鷲の歌」の最後には「ハア ヨカレン ヨカレン」とあったが、これでは曲調が明るくなり、古関が見た予科訓練生の姿とは一致しなかった。最後の一行は、西条と話し合った上で、削除することとなった。
 古関は歌詞を受け取ったものの、なかなか良い曲をつけることができず、霞ケ浦航空隊で曲を披露するときを迎えてしまう。試行錯誤して長調の曲ができたが、土浦に向かう常磐線の車中で突然短音階のメロディーが頭のなかに流れてきた。古関は「これだ、長い間求めていたのはこれだ」と、急いで五線譜に書いた。同車していた歌手の波平暁男と伴奏者に譜面を渡し、小声で歌わせると、それを聞いたディレクターが「これはいい。この曲の方が受げるかもしれない」といった。
 霞ケ浦航空隊の事務室で教官たちに聞かせると、最初に作った長調の方が良いとの感想であった。そのあとで校庭に約750人の生徒を集合させて、波平が長調と短調とを歌って聞かせた。長調の方が良いと挙手したのは10人程度、残り全員は短調を選んだ。この結果、短調に決まった。軍の指導者と、予科練志願者(大衆)との音楽センスの差があらわれている。大衆が軍歌を好まず、戦時歌謡を支持するのも納得がいく。
                                                                         (p112~115)

 インパール作戦に従軍
 古関がかつて慰問した南方のビルマ方面では、インパール作戦と呼ばれる大作戦か実行された。ビルマの防衛線を広げてイソパールを占領し、イギリス、か中国軍へ物資などを援助する「援蒋ルート」の遮断を目指した。しかし、この作戦は、2000から3000メートル級の山岳地帯を100から200キロにわたって進軍し、兵站部隊の不足は現地の人、象、牛、馬などで補うという過酷なものであった。
 インパール攻略には三個師団か投入されたか、それを総括指揮したのは、第15軍司令官の陸軍中将牟田口廉也である。彼は日中戦争の開戦となった盧溝橋事件のときの参謀長であり、武断派として知られた。この作戦計画に自信を持ち、昭和19年4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)までにインパールを陥落させることを予定した。
 大本営はインパール作戦の特別報道班派遣を企画し、文壇から火野葦平(アフガンで最近亡くなった中村哲さんの叔父)、画壇から宮本三郎(病気のため向井潤告示出発)、楽壇から古関裕而を選んだ。派遣の目的ぱ、「インパール攻略戦に従軍しまして、その印象をすぐ内地へ帰って、一般国民に伝へる」ことであった。
 このとき古関は行きたくなかった。福島に残した母ヒサは女中と二人で暮らしていたか、前年から中風で寝たきり生活であった。妻の金千加福島で世話をすることになれば、東京で生活する12歳の雅子と10歳の紀子はどうなるのか。そうした心配か、これまでの従軍慰問とは違って意欲を鈍らせたのである。しかし、本人が重病でない限り、辞退は認められなかった。気丈な妻の金子は「仕方がありません。きっと元気に帰られますよ」と励ました。
 陸軍中佐待遇の古関は、四月中旬に羽田から重爆撃機でビルマを目指し、約1年半年ぶりにラングーンに降り立った。ミンガラドンの飛行場から派遣軍司令部に向かうと、参謀からインパール作戦の状況説明を受けた。羽田を出発する前の話とは違って、「インパール陥落は、まだまだです。しばらくラングーンで休養していてください」とのことであった。
 火野と向井は状況視察のため先発したが、古関はインパールが陥落するまでラングーンに留まった。滞在中には、大野が出発前に書いた「ビルマ派遣軍の歌」を作曲し、軍楽隊とともに各部隊を慰問して回り、各部隊から頼まれれば部隊歌も作曲した。この活動中に古関はデング熱に罹って倒れている。
 古関の病状が回復する頃には、大野と向井か戻ってきた。そして両者から過酷な戦場の模様を聞き愕然とする。この時の話を思い返して、古関は「泥淳と雨と悪疫。生命を保つさえ難しい兵隊に、進撃命令、進攻作戦の地図上の参謀。すべては無謀、無駄な作戦であった」、「まことに胸か痛む思いだった」という。大本営は、7月4日にインパールからの撤退命令を出した。
 (この場面は、『エール』においては、森山直太朗演じる恩師「藤堂先生」との戦場での出会いと先生の死として描かれている。)

 サイゴンでの慰問活動
 インパール作戦が失敗に終わり、昭和19年8月に帰国命令か伝えられた。ところが、古関だけは仏印派遣軍からの要請でサイゴンに行くこととなった。8月5日に古関は、母ヒサが死去したとの知らせを受ける。享年70歳であった。妻金子が子供を東京に置いて福島に行ったのか、心配でならなかった。
 サイゴンにはコロムビアの作詞家奥野郷子夫と技師がいた。参謀部では参謀長河村参郎から、仏印派遣軍の歌を作曲すること、陸海軍の慰問、大使府文化部主催で残留フランス人および現地人のための音楽会を開催して欲しいと説明を受げた。その後、すぐに「仏印派遣軍の行進曲」は出来上がり、レコード吹き込みも行った。
 そして8月18日の午後9時から、エデン映画劇場で日本文化会館主催の「古関裕而音楽と映画の夕」が開催された。演奏は「大世界」というキャバレーのバンドを使い、メンバーのほとんどかフィリピン人であった。ワルツの「南国の朝」、児童合唱、台湾系の歌手の独唱、「仏印派遊軍の行進曲」、組曲「日本民謡集」などであったが、いずれも聴衆からは好評を得た。これでようやく帰国することが許された。

「戦ふ東条首相」の総辞職
 帰国するひと月前の昭和19年7月7日、マリアナ諸島のサイパン島がアメリカ軍の手に落ちた。日本が「絶対国防圏」と称していた要衝を失ったのである。7月18日に東条英機内閣が総辞職し、22日に内閣総理大臣は陸軍大将小磯国昭へと替わった。
                        (p118~121)

 実際に中国大陸やビルマ方面に従軍した古関は、「心の底に戦いの中に死んでいく兵士たちの人間的な悲劇性といったものは感じていたんでしょうね。それが、曲になって出て来た、と思います。実際に戦地に行って、その場に立たなければわからないこれは感情だ、と思います」と語っている。
 そうした想いは映画主題歌にもあらわれた。昭和19年11月には「雷撃隊出勤の歌」が発売されている。東宝「雷撃隊出動」の主題歌として作曲し、歌唱は霧島昇と波平暁男という「若鷲の歌」のコンビであった。雷撃隊の三人が決死の覚悟で敵機動部隊に突入するという話であり、長調と短調か交じり合う勇ましくも悲壮感がにじむ一曲である。

「台湾沖の凱歌」と「フィリピン沖の決戦」
 戦局が厳しくなるなか、明るく勇壮な曲を書くこととなる。昭和19年10月12日から15日まで、陸海車航空部隊は台湾東方海上のアメリカ車機動部隊を攻撃した。ラジオでは久しぶりに「軍艦行進曲」か流れ、空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を撃沈、空母8隻を含む隻を大破という大戦果か報道された。この台湾沖航空戦の戦果を受けて、18日放送の「軍国歌謡」として古関か作曲したのが「台湾沖の凱歌」である。
 伴奏かリズムを刻み心が弾むような明るい旋律をつげたのは、古関の工夫だろう。サトウハチローの歌詞からもわかるように、久しぶりの大戦果に国民の土気を盛り上げようとの努力が見られる。しかし、古関やサトウも知らなかったか、戦後になって台湾沖航空戦の戦果は「世紀の大誤報」とまでいわれ、実際にはアメリカの巡洋艦2隻を大破しただけであった。
 そして28日の夜には、フィリピン沖航空戦の戦果を題材にして、古関か作った「フィリピン沖の決戦」が「軍国歌謡」で放送された。こちらも勇ましく堂々たるマーチ風の曲となっている。
 戦時歌謡をあまり書かなかった作詞家の藤油洸が、珍しく勇ましい大戦果を描いている。だが、実戦は歌詞の内容とはまったく違っていた。日本海車は、10月24日から26日にかけて行われたレイテ沖海戦で、空母4隻、戦艦3隻、巡洋艦10隻など33隻、輸送船17隻、航空機215機を失った。この決戦で連合艦隊は事実上壊滅した。
 「台湾沖の凱歌」と「フィリピン沖の決戦」は、昭和20年2月に両面カップリングで発売された。もっとも、国民はレコードなど買って楽しんでいる余裕はなく、レコード盤がヒットすることはなかった。
 ラジオでは昭和20年1月5日まで両曲とも各種音楽番組で放送されたか、ラジオ報道の大戦果も一時的であり、それ以上に本土決戦に向けて戦局が悪化したため、人びとの記憶には残らなかったようだ。事実、流行歌好きの漫画家富永一朗ですら、「台湾沖の凱歌」は「僕の知らない歌」と述べている。

 「比島決戦の歌」
 フィリピンでの決戦に向けて、大本営陸軍部は読売新聞社に戦意高揚する戦時歌謡を作るよう命じた。読売は国民から募集するのではなく、作詞は西条八十、作曲は古関裕而を指名した。作詞と作曲の試作か披露される席には、大本営陸軍部の関係者、西条と古関、音楽評論家の記者吉光明光など読売関係者に加えて、ラジオ放送で発表することを予定していたためJOAKの音楽部長吉田信、同副部長丸山鉄雄などか同席したようだ。
 その席で陸軍中佐親泊朝省(おやどまりちょうせい)が、歌詞に敵将のマッカーサーとニミッツの名前を入れ、国民の敵愾心を煽るようにすべきだと注文をつけた。これに西条は断固拒絶したが、軍部は強硬に譲らない。最終的には西条が折れて、「レイテは地獄の三丁目 出てくりや地獄へ逆落とし」を、「いざ来いニミッツ マッガーサー 出てくりや地獄へ逆落とし」へと変更した。古関は二種類の曲を用意しており、それを聞き比べて勇ましい方が選ばれた。
 昭和19年12月17日、ラジオで「比島決戦の歌発表」が放送された。丸山によると、JOAKでは「国民合唱」で2週間毎日放送する予定でいたが、一週間で打ち切りとなった。当時は軍部から知らされなかったが、後でわかったことでは、すでにアメリカ軍にマニラを占領され、「比島決戦」の勝敗は決していたからであったという。
 しかし、これは丸山の記憶違いで「国民合唱」で放送されたことはなかった。この日以降、「比島決戦の歌」は「歌謡曲」や「歌や軽音楽」など各種音楽番組で放送されている。
 この当時、千葉の九十九里に疎開していた作詞宗白鳥省吾(せいご)は、そこの国民学校の生徒たちが毎日のように「出て来いニミツツマツカサー、出て来りや地獄へ逆落し」と歌っていたと述べている『この白鳥の証言部分は、GHQの検閲を受けて『歌謡ニッポン』1-3では削除修正されている)。地域によっては子供の間で広まったようだが、大人の間ではあまり受けなかった。
 事実、ラジオの聴取者には、この曲を批判する者もいた。「低調な歌」と題し、「口ぎたなく相手を罵って、それで己れの優越を示さうとする長屋の喧嘩の悪口雑言と何の選ぶところもない歌もある」、「低調下等な歌を歌って、心を高めるものがあるか」、「もつと堂堂と、清高な感情をもって胸一ぱい歌へる歌であつてこそ、戦意は昂まるのだ」と新聞に投書している。
 軍部の圧力によって歌詞が変えられた「比島決戦の歌」は、聴取者の心をつかめなかった。その想いは古関も同じで「幻の、いやな歌」と評価している。昭和20年2月発売という「比島決戦の歌」のレコードは、実際に出たかどうかはっきりしない。
                        (p126~130)


戦時歌謡の終わり
 古関の邸宅は、昭和20年3月10日の東京大空襲と、5月27日の空襲でも焼失することはなかった。しかし、危険を回避するため、長女雅子と次女紀子を福島市に疎開させることにした。古関は、JOAKの「国民合唱」で4月1日から14日まで放送された「特別攻撃隊「斬込隊」、5月20日から6月9日まで放送された「ほまれの海軍志願兵」などを作曲している。
 7月には福島市も空襲の恐れが出てきた。古関は飯坂温泉の知人宅に2人の娘を移すことにし、妻金子が福島に向かった。同月中旬にはJOAKから、金子か腸チフスに罹って重篤だとの知らせを受けた。当時は電車に乗るにも許可を要したが、古関はJOAKと海軍省から特別通行証を得ていたため、すぐに福島に行くことができた。
 金子の顔には「死相が現れていた」が、古関の輸血に加えて、福島には薬、玉子、牛乳、果物、野菜などがあったため、一命をとりとめた。8月10日に退院すると、古関はJOAKの仕事で東京へと戻った。
 古関の随筆「終戦のころ」によれば、福島から上野までコー時間もかかり、上野に着いたのは8月15日の午前11時だったという。そこで列車を乗り換えて新橋駅を降りると、駅長室付近に人だかりができていた。古関が「何ですか」と尋ねると、「正午に天皇陛の玉音放送があるそうです。敗戦ですかねえ、それとも本土決戦かも……」
 しばらくすると、終戦を告げる玉音放送か流れた、か、古関は周囲の雑音などでよく聞き取れなかった。だが、降伏したことは、目頭を押さえる人や嗚咽でわかった。これで戦時中の人たちの応援歌ともいうべき、戦時歌謡を作曲することも終わる。
 (この部分は、朝ドラ『エール』とは、異なる)


 若者たちの反応
 古関は、「苦しい時つらい時、皆で合唱すれば、それらは消え去るでしょう。労働する時に掛け声と共に歌を歌えば疲れも忘れ作業にぱげむことも出来ます」と語っている。苦しい戦争体験をした若者は、どんな気持ちで古関の歌を聞き、歌っていたのだろうか。その貴重な証言のいくつかを取り上げる。
 昭和20年4月に長野県立伊那高等女学校に入学した女子生徒は、動員作業を行う日々のなかで「「予科練の歌」「ラバウル航空隊」「日の丸行進曲」等に若い血をおどらせ歌ったものだ」と語る。「日の丸行進曲」を除く二曲とも古関の曲である。
 この前年の昭和19年6月12日、兵庫県立神戸第三高等女学校の三年生たちぱ、東洋べアリングという会社で動員作業を終えると、「二列にきちんと並んで、みんな大声を出して、「予科練の歌」などを歌って帰ったものです」という。
 昭和20年3月に岡山県矢掛中学校を卒業した男子生徒は、「水島工場への道を、隊伍を組み、白い鉢巻をきりりと締め、もんぺをはいた女学生の一団か、「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨ー」と合唱しながら行進して行きます。その歌声は、私達少年に予科練への志願を催促する響とも聞こえました」と、当時を振り返る。
 ここで意外なのは、「若鷲の歌」か男子生徒だけでなく、女子生徒だちか好んで唱歌していることだ。歌謡曲の評論家が書く歌謡史本では、「若鷲の歌」は男性、「愛国の花」は女性と、それぞれの対象を単純に捉えているか、実際には、男女の別なく、当時作られた戦時歌謡を楽しんでいた様子がうかがえる。
 学校や工場か歌うことを強要したのではなく、自分かちが好んで歌っていることを見逃してはならない。古開か作った戦時歌謡は、当時の人たちにとってI安寧と娯楽」であり、また苦しい戦時下で明日を生きる希望ともなる存在であった。

 戦争がもたらしたもの
 戦前の流行歌はあまり人気がなかったか、戦中には他の作曲家たちを押しのけて、圧倒的な支持を集めるようになった。古関加持つクラレ″ク音楽の魅力か、時代の空気と一致したある。したがって、日中戦争の勃発、さらにアジア・太平洋戦争に突入したことは、古関の作曲家としての地位を高めるものとなった。
 歴史にもしもはないが、日中戦争か起きず「露営の歌」が生まれなげれば、古関が活躍する時期はもっと遅れおたのではなかったか。古賀政男や服部良一と肩を並べて、流行歌の三大作曲家と呼ばれるようになれたのも、戦争が起きたからである。
 そのことを誰よりも実感していたのは、古関自身であったと思われる。古開が中支那方面の慰問で「露営の歌」を歌う多くの将兵を前に涙を流したことは覚えておられるだろう。彼らの姿はもとより、ビルマ方面の慰問先で目にした将兵の姿が脳裡によぎったことも想像に難くない。
 自分は戦争によって作曲家として活躍する機会に恵まれた。しかし、一方で自分が書いた歌を大衆が支持し、その歌で戦場に送られ、多くの若者だちか死んでいった。そのような矛盾する状況を、古関は終生背負うこととなった。
(この様子は、現在の朝ドラ『エール』の古関のと重なる。明日からは、古関が、自分のしてきた矛盾を抱えながら、戦後をどのように生きるのかが描かれる。お楽しみに!)

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