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すべては距離感である(31) 私の写真修行

はじめに


何を撮ったら良いかわからない。
どうやったら写真が上手くなるのか。
良い写真とは何か。


カメラを手にし、夢中でシャッターを切り続けているうちに、誰しもがこうした悩みや問いを前に、うなだれる日があるのではないでしょうか。

写真家・森山大道さんは「量のない質はない」と仰っています。
撮るべきものが見つかるまで、撮るしかない。
否、むしろ撮るというあり方そのものが主客反転し、被写体に撮らされているのかもしれない。
それでも、何を撮ったらよいかわからない時間は辛いものです。
ふと気がついたら、せっかく手に入れたカメラが埃をかぶっていた……という方も多いのではないでしょうか。

今回は、同じく迷いの森を歩む旅人のひとりとして、私の個人的な写真修行について書いてみたいと思います。
これまで書いたことと重複する部分も多いのですが、ご容赦頂ければ幸いです。

結局、Leica M10-P と アポ・ズミクロンM f2/50mm ASPH.を持ち出してしまう

写真ってこういうことなのか  

私が写真を学び始めたのは、今から約四年前のことになります。

写真家・渡部さとるさんと「ライカM9」を手に井の頭公園を歩きながら撮影した写真の日付が、2021年9月17日。
当時私は、映画「君たちはどう生きるか」の現場で、宮﨑駿監督が机に向かう姿を撮り続けていました。
「もっと上手くなりたい」──と、YouTubeチャンネル「2B Channel」を通して知った渡部さんにお目にかかり、写真を撮ってはご覧頂き、アドバイスを頂いていました。

ある日、渡部さんにかけて頂いた言葉が、写真の面白さに気づく大きなきっかけとなります。

「もっと、引いて撮ったほうがいいね」

当時の僕は、85ミリ、135ミリといった中望遠のレンズを手に、絞り開放で宮﨑さんのアップばかり撮っていました。

「運動会でお父さんが、超望遠レンズで自分の子供のアップばかり撮っている写真があるでしょ。10年後、20年後にその写真を子どもが見たらどう思うかな? もっと引いて撮っておけば、友達や校舎、その時に食べたお弁当とか、その時の記憶を呼び起こすものが写る。宮﨑さんがどういう鉛筆を使っていたのか、その瞬間にどのような画を描いていたのかを残しておいたほうが『写真』になると思いますよ」

数日後、宮﨑さんが机に向かう姿を、少し離れて撮ってみました。  

大きくプリントすることで、肉眼でも気づかなかった情報量に驚かされました

この写真は後に、ライカGINZA SIXと横浜そごう店で開催した初の写真展「石を積む」で展示されることになるのですが、今も、宮﨑さんが作画机に向かう張り詰めた空気を、ありありと思い出すことができます。

写真は、眼の前の現実をそっくりそのまま写し出しているわけではありません。
四辺に「縁」があり「静止」している。
動画であればカメラを左右に振ることで別な情報が見えてきますし、画面内の情報が動くことによって時間と空間が生まれます(動画もまた現実ではないのですが)。
しかし写真は、フレーム内に切り取られた瞬間です。

宮﨑さんの背中を撮り、EVF(当時のメインカメラはLeica Q2でした)を覗き、その情報量に息を飲みながら、ふと「ハウルの動く城」制作時の宮﨑さんの言葉──そして、『エヴァンゲリヲン』や『シン・ウルトラマン』を生み出した庵野秀明監督と話した時の記憶が蘇りました。

50mmレンズの中に28mmの情報量を押し込める

スタジオジブリ公式サイトより引用

アニメーション制作において重要な工程のひとつに「レイアウト」というものがあります。
写真であれば、撮影位置に立ち、カメラを構え、被写体と背景をどのようにフレームに収めるかという「構図」を決める工程です。

アニメーションは真っ白な紙に鉛筆でキャラクターと背景を描き出します。
キャラクターだけではなく、人物が生き生きと動き出す空間──背景を描くこともまた、アニメーターの重要な仕事です。

「君たちはどう生きるか」の制作時 宮﨑さんの修正用紙の右下にはオレンジのマーカーで印がついている。

「ハウルの動く城」の制作時、マルクルというキャラクターが「動く城」に入ってゆくカットのレイアウトが完成し、当時制作進行だった私は、アニメーターから受け取ったカット(場面)を宮﨑さんの机に届けにいきました(※上記の場面とは別なカットです)。

宮﨑さんはレイアウトをしばらく眺めた後、私に「ちょっと、ここ(横)に立ってて」と手招きすると、アニメーターの描いたレイアウトの上に修正用紙(薄手の紙を上から重ねることで、監督や作画監督がよりクオリティを上げるために上から画を修正します)を載せ、サラサラと鉛筆を走らせ始めました。

その時の宮﨑さんの修正は、以下のような内容でした。

・マルクルの立ち位置はあまり変えず、ハウルの動く城の奥行きをより深くする。
・宮﨑さんのレイアウトは、人間の見た目に近い50mmくらいの焦点距離(厳密にこの焦点距離ということはなない)で描かれることが多いが、28mmくらいの広角レンズでしか写らないような、動く城の中に配置された左右の家具やガラクタ等を描き、情報量を上げてゆく。
・マントを被ったマルクルのシルエットを修正。

「この方が、(動く)城の雑多な感じが出るでしょ」


またたく間に画面の中に空間が生まれ、マルクルが動く城の床を踏みしめる音が響いてくるようでした。

「人間は、写真のように世界を見ていない」

宮﨑さんはよくそう仰っていました。
人間の視界は、写真のようにフレームで切り取られていません。
自分が見ているところ以外はぼやけており、一定以上遠くの風景でない限り、すべてがクッキリ見えているわけではありません。
最近は、3DCGでレイアウトを正確に作るアニメーションも増えていますが、宮﨑さんの作品は、すべてのカットでキャラクターや背景の大きさや描き方が異なります。
宮﨑さんの作品に、私たちがより「主観的」に没入できるのは、すべてのカットが「こう見せたい」という意図が散りばめられているからなのです。

宮﨑さんの横に立ち、アニメーターの描いたレイアウト(もともと素晴らしかったのですが……)が奥行きと情報量に溢れた空間になってゆくことに驚嘆しながら、思わず言葉が漏れました。

「50mmの標準レンズの中に、28mmとか、広角レンズで撮った時の情報量を押し込むといった感じなのでしょうか?」

いつものにように「そんな簡単なことじゃないよ!」と一蹴されるかと思いきや、宮﨑さんは手を止めて振り返り、

「まぁ、そうとも言えますね」

と、ニコッと笑いました。

宮﨑さんはいつも、横に立ちながら描く様子を見せて下さいました。

記憶とは不思議なものです。
一枚の写真から様々なことを思い出すように、芋づる式に記憶が呼び覚まされます。
ふと、庵野秀明監督が「シン・エヴァンゲリヲン」の現場にいらっしゃった頃に仰っていた言葉を思い出しました。

庵野秀明監督のシナリオ執筆法

これから記すことは、庵野秀明監督と雑談をしている時(もしかすると、庵野さんにまつわる別な情報と記憶とが織り混ざってしまっているかもしれません)の記憶を頼りに記します。庵野さんの公式な発言ではなく、あくまでも筆者である私が、記憶を元に紹介するエピソードということで、ご承知頂ければ幸いです。

庵野さんと、ものづくりについて雑談をしていた時のこと。

「庵野さんは、どんなことを考えてシナリオを書くのですか?」

──そう問うと、庵野さんはいつもそうされるように少し遠くを見据え、肘を大きく持ち上げながらペットボトルのお茶を飲んだ後、こう問いかけてきました。

庵野「宮さん(宮﨑駿監督)の映画って、大人向けだと思いますか? 子供向けだと思いますか?」
石井「う〜ん、確かにファミリー映画の巨匠みたいに言われてますけど、決して子供むけじゃないですよね」
庵野「例えば『千と千尋』の後半、千尋がカオナシと電車に乗ってゆくシーン、あそこって子供向けじゃないですよね」
石井「確かに……あそこは宮沢賢治(「銀河鉄道の夜」)ですね」
庵野「でも宮さんは、あのシーンの前に、おっきな赤ん坊(坊)と、湯婆婆の鳥(湯バード)を、ネズミ(坊ネズミ)と鳥(ハエドリ)に変えて、画面の隅でずっとアニメーションさせてるんですよ。大人が千尋とカオナシを見てる間、子供はネズミと鳥を見ている。だから、宮さんの映画はヒットするんです」


庵野さんはとても謙虚な方で、ご自身のことを多く語らないのですが、そう仰った後、ご自身のシナリオの書き方について、下記のようなことを教えて下さいました(あくまでも僕が理解した範囲の整理です)。

・シナリオを書く前に、そのシーンで描きたい要素を箇条書きにする(5個くらいと仰っていた記憶があります)。
・各々の要素は、必ずしも関連していなくても良い。いずれも、観客の心に訴えかけるような映像であったり「こういうことを見せたい」という描写である。例:「画面が真っ赤になる」「巨大な建造物が倒れる」「主人公がヒロインの手を引いて走り出す」等。
・上記を、ひとつの画面の中で描けるようにシナリオに盛り込む。

観客が共感するような要素を、台詞や物語だけではなく、画面の中に映像として盛り込み、情報量を上げているのです。
宮﨑さんも庵野さんも、ひとつの画面に複数の情報量を込めることで、見る人が「この感じ、いいな」と感じる接触ポイントの数を増やしている。アニメーションは、言語化できない感情のシャワーでできている──と言ったらよいかもしれません。
ヒットメーカーと呼ばれる人は、企画の斬新さやキャラクター、ストーリーだけではなく、画面の情報量を上げ、ひとりでも多くの人々が視覚的・感覚的に共感するタッチポイントを増やしている……。

宮﨑さんは、こうも仰っていました。

「一カットの中にね、一つの要素しか無い画は最低なんです。いくつもの要素をつめ込まなければならない。何を見せたいのか? 何を伝えたいのか? それがなきゃダメ」

スタジオジブリ公式サイトより引用

本連載の第⑦回で、優れた芸術やエンターテインメントを見た時に感じる「感動」とは「観客の中に眠る記憶が呼び覚まされること」ということを書きました。

表現によって鑑賞者の中に沸き起こる感動、=「あるあるスイッチ」。
クリエイターは、この『あるあるスイッチ』を押す方法を持っていなければならない。

渡部さんのアドバイスと、宮﨑さん、庵野さんの言葉が、自分の中でつながった気がしました。
彼らのような才能はないけれど、写真という「レイアウト」の中で、見る人の「あるあるスイッチ」をできるだけ多く押すことができたら……と考えたのです。

写真は距離で「描く」しかない

その日から、カメラを構える前に被写体をよく観察し、画面の中にどのような情報量を「描く」かに意識を集中するようにしました。

それまでの私は、カメラの性能やレンズの描写に頼り「かっこいい写真」「人から褒められるような写真」ばかりを撮ろうとしていたような気がします。

いい写真が撮れた! と思ったけど、今見返すと、凱旋門以外の情報がない……。
はじめてパリフォトに参加した2022年。無我夢中で撮っていた……。

「あ、いい写真撮れたかも……」と感じても、現像をしている内に自分で自分の写真に飽きてしまう。

いい写真、上手い写真を撮ろうという気持ちを捨てよう。

そう心に決めました。
自意識よりも、自分がその時に感じた「あ、いいな」と思った感覚を、独りよがりではなく、画面の中に具体的な情報を、ひとつでも多く入れ込むことで伝えることに集中しようと考えました。

今も私が、最も気をつけるべきだと考えている言葉は「自分らしさ」です。
自分にこだわり、自分らしさに囚われ過ぎれば過ぎるほど、自分も世界も見えなくなる。
「自分らしい写真」ではなく「自分が感じた感覚を、より多くの方に共感して頂くのはどうすればよいのか」の方が大切だと考えています。

スコットランド・エジンバラにて

スコットランド・エジンバラの街を歩いている時のこと。
市庁舎の広場で結婚式を終えた新郎新婦が、手を繋いで立っていました。
はじめは新郎新婦の前に回り込み、ふたりの幸せそうな表情を撮ろうとしていましたが、ふりかえると、市庁舎の中から、ワラワラと来賓が出てきました。
どうやら、集合写真撮影が始まるようです。

「あ、この感じ、日本の結婚式も同じだな……」

ぐるっと新郎新婦の背後に回り込むと、バグパイプ奏者の男性と、記念撮影をするために来賓をまとめる女性の後ろ姿が視界に入ってきました。少し後ろに下がり、広角レンズのカメラ(この時は、Leica Q3(28mm)も携行していました)に持ち替えて、シャッターを切りました。

なんてことのない写真ですが、この時、自分が感じた感情を伝えるために考えた情報は、以下の通りでした。

・来賓の幸せそうな雰囲気を伝えたい。
・その場を仕切る赤い服を着た女性の少しコミカルな動きの瞬間をとらえたい。
・手をつなぐ新郎新婦の距離感は大切にしたい。
・ちょっと気を抜いて撮影を待つバグパイプ奏者の男性もしっかり押さえたい。


誰しもが感じたことがあるだろう、結婚式における「あるあるスイッチ」を、少しでも多く押せる写真が撮りたい……と考えて撮影した一枚です。

自分と被写体との距離だけではなく、被写体同士の距離感も大切

ロンドンの老舗書店で、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」と「モモ」の英語版を探していた時のこと。
本棚に並ぶオレンジ色の背表紙にの配列に、とても懐かしい感覚を覚えました。
目線を落とすと、女の子がふたり、寄り添いながら夢中で本を読んでいます。
姉妹なのか、友達なのか……と想像しながら横を見ると、母親と思われる女性が、本棚によりかかりながら本を開いていました。
「撮ってもいいですか?」と、アイコンタクトすると、微笑み返してくれたので、ふたりの後ろに回り込みます。

・オレンジ色の背表紙が最も美しく並ぶ場所はどこか(はじめはそこに惹かれていた)。
・本を読むふたりの親密な距離感は大切にしたい。
・ふたりが何を読んでいるのか伝えたいので「FICTION」のプレートが入るように。
・上から見下ろすと威圧感が出そうなので自分もふたりとほぼ同じアイレベルに。 → 鑑賞者もその場にいるように感じてほしい。


被写体を見つけ、すぐに撮ろうとしてファインダーを覗いてしまうと、その場を動くことができなくなります。
一度ファインダーを覗いてしまったら、画面の中に入れ込む情報量をコントロールすることはできない。
アニメーションや絵画は、作り手が真っ白な紙に一から被写体や背景を描くことができますが、写真にはそんなことはできません。
カメラを手にする者が唯一できること──それは、自分の足で動き、被写体との距離を測ることによって「描く」こと。

私は、写真を撮るという行為を、自分の足を絵筆にして描く、絵画なのだと考えるようにしています。

渡部さん、宮﨑さん、庵野さんに教えて頂いたように、自分がその時に感じたことを鑑賞者に伝えるために、フレームの中にどのような情報を入れ込むか。「構図」や「フレーミング」という言葉では、どこか窮屈な気がします。
私にとっての写真は、自分が感じたことを他者に伝える手段。
できれば自分の存在など失われ、鑑賞者自体がその場に立ち会っているかのような写真を撮りたい──と心から思います。

すべては距離感である 新章へ

多くの方々に読んで頂いている「すべては距離感である」。
人生の距離感と写真撮影の距離感は似ている──というテーマで書いてきた本連載は、写真展に発展し、多くの方々と、写真撮影における距離感について考え、語り合う貴重な機会を頂きました。

本連載と写真展を通して、皆さんと素敵な距離感を生み出すことができたことを、この場を借りて深く御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

今月、毎年参加しているパリフォトへの渡欧に合わせ、ギリシャのアテネを旅してきます。
詳細は本noteでお知らせしたいと思いますが、ライカのカメラとレンズを生んだドイツ・ウェッツラーへの旅で出会った「色彩論」というテーマに取り組む旅になると思います。

アイザック・ニュートンが17世紀に発見した、色彩は光からもたらされるという「光学論」。そしてニュートンをを否定し、光と闇の間に色が存在し、見る者の目によって色彩は存在すると考えた文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。
ゲーテの色彩論の基礎となった考え方は、紀元前ギリシャの哲学者・アリストテレスによるものでした。
アテネで、アリストテレスが見た光と影、色彩を撮りたいと考えています。

カメラを手に、光と色彩について考えながら、アリストテレス、ニュートン、ゲーテの見た光と影、色彩を追いかける旅へ。

今後も、本noteを宜しくお願い申し上げます。

フランクフルト ゲーテ博物館にて

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