掌編小説『物干し場にドン・キホーテ』
ある晴れた日の朝八時、洗濯機を回そうと裏の物干し場に続くサッシを開けた瞬間、ギョッとした。土の地面に、蹄鉄の跡。おそらく、馬の。
いやそんな馬鹿な。閑静な住宅街の、集合住宅の、青緑色のフェンスに囲まれた猫の額よりも狭い物干し場を、馬が通って行った──あり得ない。
私はしゃがんで、その跡をじっくりと吟味した。しかし吟味したところで、何が判るでもない。そもそも、馬の蹄鉄の跡なんて物自体、見た事がないのだから。
しかしよくよく観察すれば、大型動物の体重によってつけられた足跡というよりは、やはり誰か人間の手によってこしらえられた跡という感じがした。当たり前か。昨夜たまたまドン・キホーテの出て来る夢を見ていたものだから、一瞬あの名高いラ・マンチャの郷士が此処を通って行った···などという馬鹿げた夢想が脳裏をよぎったが、すぐに私はそれを打ち消した。
見渡すと、一見何も壊されてはいないし盗まれてもいないようだったので、とりあえず私はいつも通りに屋外にある洗濯機を回し(この建物は随分と古いのだ)、部屋に戻った。
···さて、どうする。子供のイタズラか、それとも愉快犯か。知らない何者かがフェンスを乗り越えて敷地内に入って来たと考えると少々気味が悪いとは思ったが、さりとてこの程度の事、わざわざ警察に届けたところで特に重要視もされないだろう。とりあえず大家さんにだけ報告しておいて、後の処置や判断は大家さんに任せよう。
そう結論付けた私は、万年床の上にゴロリと横になり、スマホをいじりながら洗濯機が止まるのを待った。そしてぼんやりとこう考えた。
(サンチョ・パンサの、ロバの足跡は、無かったなあ)
もしもそれがあったなら、私は私の見た夢とこのイタズラとを、もっとロマンチックに結びつける事が出来たのに。
(残念なイタズラ)
そう心の中でディスって私は、スマホを片手に握ったまま、浅い眠りに落ちて行った。
終わり
※この小説は、「僧侶上田隆弘の旅と読書のブログ」さんの記事、「『ドン・キホーテ』は、世界の書である。─したがって、世界旅行には打ってつけの書物だ」byトーマス・マン
を読んで着想を得た物です。
