故郷が無くなることって…下川鉱山、羽幌、浅野、昭和炭鉱(2003年)
幌加内から和寒に向けて、闇の中、車を走らせる。家の灯りもなく、すれ違う車も無い。カーナビは目的地到着を告げるが建物も見当たらない。途方に暮れていると、闇の中から懐中電灯を持った人が現れた。ここは北海道上川郡和寒町字福原。小学校の跡地であった。

廃校の宿から…和寒「ゆきのおと」
案内されて到着したのは、廃校となった小学校を利用した旅人宿「ゆきのおと」。季節は11月。宿泊客は私を含めて3名だった。幌加内と和寒の中間地点に位置する福原。この小さな盆地には集落すら存在しない。
小学校の建物は、この宿泊者数に対しては大きすぎるし少し寒い。しかし、ここでもまた楽しい団らんがあり、心は暖まった。宿のご主人は絵が得意なようで、鉄道の絵がたくさん飾ってあったのが印象的だった。ここで、明日訪れる予定の廃鉱の情報を仕入れる。
「ここにも廃鉱はあるよ」と言われたが、それは次回の訪問時に探索しよう…



住民だけが神隠しにあった…下川鉱山
延々と続く落葉松林の中を車を進める。士別を経由して、道道下川愛別線を行く。途中には民家もなく、この道路をこのまま進んでよいものか不安になる。人の営みは全く感じないのに、やたら立派な道路を進む事しばし、突然、横断歩道が現れる。ここから先は集落なのだろうか。幼稚園、小学校…突然山奥に現れた街に驚く。廃墟感はなく、普通の街である。ただひとつ異なるのは、ここには誰もいない、誰も住んでいない、ゴーストタウンなのである。

下川鉱山(三菱鉱業)の採掘が中止になったのは1982年。小学校が閉校になったのが1991年なので、僅か10年前のことである。他の炭鉱などに比べれば最近の話だ。そのため、学校など、外観はしっかり残っている。さすがに住宅こそ撤去されているが、集落があった事はハッキリわかる。
下川鉱山は鉄鉱石などを採掘していた。露天の採掘現場や作業場も見えて、後処理を行っている作業員の姿も確認できた。まるで現役の鉱山のようにも見える。廃液処理が必要なため、閉山したらハイ終わりという訳にはいかないのだろう。
ゴーストタウンといえば、雪で倒壊した建物などが目立ち、不気味な雰囲気が漂っているが、ここでは住民だけが神隠しにあったような、不思議な感覚だった。ひとことで言えば「無」の世界。



鉱山から街に降りるとそこは下川町。名寄本線(1989年廃止)の駅があった所だ。線路こそ無くなったが、街は残り、人々の生活が今も続いていた。
山奥の無人地帯を貫く未成線…名羽線
天塩山地の奥深くから日本海へ抜ける無人の峠道。坂道と立派なトンネルの連続…。国道239号線は立派な道路だが、すれ違う車も無く、感覚がおかしくなりそうだ。このような山奥に立派な道路が果たして必要なのか…。北海道には廃村や人口希薄地帯が多いが、ここはひたすら原生林が続く、本当の無人地帯だった。
霧立峠で小休止、シーズンオフという事もあるが、ここも誰もいない…。車を離れたら、熊に襲われそうな気配を感じる。こんな寂しくて恐ろしい所を早く脱出したくて車を飛ばした。
このような、山奥にも鉄道建設が進んでいた。工事中止は1980年(昭和55年)。工事跡を探索しようにも、大自然の中ではそれも難しく、熊の危険性もあるので、足を踏み込む事はできない。未成線と呼ばれる名羽線…起点の曙も、終点の朱鞠内も廃村同然、そして途中は集落ひとつない厳しい山地。完成しても乗る人はまずいなかったであろう。
廃線跡というのも寂しいが、一度も使われる事なく遺棄されたトンネルや橋脚は無念で、作った人の怨念がこもっていそう。それにしても何という無駄使い…。建設開始が1962年(昭和37年)とのことだが、この頃、鉄道の衰退は見えていた筈である。
ピークを迎えた2年後に突然の閉山。山奥に眠る羽幌本坑
約90㎞の独り旅を終えて突然現れたのが、羽幌炭坑のゴーストタウンであった。炭鉱事務所、立坑、石炭積み込み施設、学校、いずれも自然に朽ちるまま放置されている光景は凄まじかった。名羽線はこの街を目指していたのだった…。炭坑が閉山したのが1970年、鉄道の工事中止が1980年…。どうしても理解できない10年間。
羽幌炭鉱の悲劇は、その凋落が突然だった事であろう。近代化を成し遂げ、1968年(昭和43年)に産出量のピークを迎えたが、翌年には経営が悪化し、2年後の1970年(昭和45年)に倒産。炭鉱は閉山。鉄道も廃線…。約1万3千人の人が住んでいた山の中の集落は消滅。あまりにも突然の出来事だった。
羽幌炭鉱方面と築別炭鉱方面が分岐して、大きな街であった曙も、小学校の廃校跡をはじめ、廃墟ばかり目立つ場所であった。建物はそのまま、人だけ逃げ出したかのような光景は胸が痛む。その最たるものが築別炭鉱跡だろう。



1万3千人が暮らした街は消滅。団地がそのまま残った築別炭鉱。
無人の荒野に浮かぶ巨大な鉄筋コンクリート造りの太陽小学校は、1967年(昭和42年)完成、4年後の1971年(昭和46年)廃校という悲運の学校だ。さらに先には高層団地群が現れる。これも廃鉱の2年前に完成した団地である。他の廃鉱跡と違い、比較的新しい建物が残っているのは、閉山が突然、決まったからだろう。まるで街全体が夜逃げしてしまったかのようである。
この団地を見て、吐き気や震えが止まらなくなった。デジカメも動かなくなった(低性能の携帯電話で撮影は続けたが…)。何かに憑かれた? ここは危険。すぐに離れないといけない。興味本位で訪れる場所ではなかったのかもしれない。逃げるように旭川に向かって帰った。




訪ねる事が出来ない故郷。昭和炭鉱
明日萌駅こと留萌本線の恵比島駅を訪れた時に発見した廃墟が事の始まりだった。ここに何かがあった筈…。調べてみると、そこは昭和炭鉱、雨竜炭鉱から石炭を運び出していた留萌鉄道の起点であった。ところが、地図を見ても、現地を訪れても鉄道跡はおろか、街があった気配すらない。
浅野炭鉱は1968年(昭和43年)11月に閉山。沼田ダムの完成によりホロピリ湖の底に没してしまったが、大きな炭鉱と炭住のあった昭和炭鉱は、ゴーストタウンだが、今でも街がそのまま残っているらしい。
昭和炭鉱に向かう林道は閉鎖されていた。朽ちて崩壊しつつある昭和炭鉱の街を載せている廃墟サイトは多い。訪ねた人はこのゲートを越えたのだろうか。街がそのまま残っているという点で、荒廃具合は羽幌炭鉱以上と予想される。誰も入れない山奥に眠るゴーストタウンは、はたして成仏できているのだろうか…。


故郷が無くなる事って...
羽幌炭鉱は車があれば訪れることは出来る。しかし、浅野炭鉱や昭和炭鉱は訪れる事はできない。人々の生活があった場所には、まだ住民の魂がそこに残っているのではないだろうか。故郷が無くなるって事ってどういう事なのだろうか…。
茨城県にひたちなか海浜鉄道という私鉄がある。そこには、羽幌鉄道と留萌鉄道を走っていた車両が使われていた。2010年、ふたり(2両)に会いに行った。帰る故郷がなくなってしまった留萌鉄道の車両にかける言葉をみつける事ができなかった。


訪問日:2003年11月3日
2007年9月22日
執筆日:2004年1月11日
加筆日:2025年3月9日
「ゆきのおと」
宿主の病気療養のため、宿は廃業となりました。
下川鉱山
小学校も幼稚園も解体撤去されました。
築別炭鉱の団地
現在は立ち入り禁止です。
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