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電気機関車EF57の切手 1940年 責任主体の霧

「電気機関車シリーズ」記念切手が、国鉄民営化(1987)後の鉄道の転換期ともいえる1990年に発行されたのは電気機関車への回顧と顕彰なのかもしれない。

電気機関車は外部電源で客車や貨車を牽引する機関車であり、90年代以降置き換わっていく動力分散方式の「電車」とは異なる。

1940年登場した EF57形電気機関車は戦前〜戦中期の旅客電機の完成形みたいな存在。
巨大、重厚、長距離旅客用、山岳幹線対応で特に上越線などで活躍した。
登場時期が戦時色と重なっていて、 国家総動員体制下の実務機械へ時代が変わっていく空気も背負ってる。

1940年、三国同盟が結ばれる。
ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、そして日本。教科書ではしばしば三者が並べて描かれる。

しかし、ここで妙な違和感がある。

ドイツとイタリアは、ヒトラー、ムッソリーニという強烈な人格を持った独裁者国家だった。だが日本側は、「日本」あるいは「近衛内閣」と表現される。国家を代表する“顔”がぼやけているのである。

実際、日本の戦時体制はかなり特殊だった。

天皇は存在する。しかしヒトラーのように毎日演説して国家を直接指導するわけではない。首相は頻繁に交代し、陸軍・海軍・官僚・元老・政党・財界が複雑に絡み合う。決定は存在するのに、「最終的に誰が決めたのか」が曖昧になる。

この構造は、単なる欠陥ではなかった。むしろ明治以来の日本を成功させた仕組みでもあった。

日清、日露戦争の時代、日本はまだ若い近代国家だった。制度は未成熟で、欧米列強のような強固な政治システムもない。だからこそ、天皇への忠誠、官僚機構、軍、世論、新聞、財界、が、曖昧に重なり合いながら動く「分散型国家」が機能した。

誰か一人の強烈な独裁ではない。だが皆が「国家の空気」を読み、阿吽の呼吸で前進する。この柔らかい結合は、日清・日露戦争まではむしろ強みとして働いた。

だが問題は、その成功体験だった。

日露戦争は世界史的には大勝利だったが、日本国内では必ずしも満足感を生まなかった。賠償金は取れず、国民生活は疲弊し、社会には不満が残った。1905年の Hibiya Incendiary Incident は、その象徴である。

つまり日本は、「勝った」のに満たされなかった。

ここで奇妙な心理が生まれる。

苦しい。だが国家は成功している。
疲弊している。だが拡張は成果を生んでいる。
だから「次こそ報われるはずだ」と、さらに次の拡張へ向かってしまう。

この構造は、後の満州進出や総力戦体制へ連続していく。

しかも、日本型組織の特徴として、「責任主体の霧」が存在した。決定は集団で行われ、空気が方針を作り、誰もが少しずつ関与する。だから暴走しても、誰か一人が止めることが難しい。

そしてこの構造は、戦前だけの話ではない。

現代でも、

  • 実際には利益の薄い大型プロジェクト

  • 成果の曖昧な産学連携

  • やめ時を失った地方イベント

  • 惰性化した補助金事業

などに、似た空気を見ることができる。

完全な失敗なら撤退できる。だが少し成果があり、関係者がおり、予算がつき、前例が積み上がると、「継続そのもの」が目的化する。

こうして、

「成果を求めて始まったもの」が、
「やめられないから続くもの」へ変質する。

戦前日本の「ズルズル体制」とは、単純な狂気でも独裁でもなかった。むしろ、成功体験を積み重ねた柔軟な組織システムが、巨大化した結果として停止不能になった姿だったのである。


もうだいぶ前になる。
学校で、新設学科の立ち上げを請け負ったことがあった。

当時としてはかなり時代に合った内容で、結果として多くの学生が集まり、学科は盛況だった。企画としては成功だったと思う。

ただ、立ち上げの時に一つだけ条件を出した。
「これは4年間の企画として考えています」
と。

社会や技術の変化は速い。役割を終えたら閉じ、また次を作ればいい。そんな感覚だった。

だが理事や運営側からは、「その考え方は問題があるのではないか」と言われた。

その時、不思議な感覚が残った。

この人たちは変革を求めている。新しいものを作ろうとしている。
けれど同時に、その新しさが永遠に続くことも望んでいるのだ、と。

結局、学科は軌道に乗った。
だが私はそこを離れ、別の場所へ移った。

今振り返ると、あの時感じた違和感は、戦前日本の「ズルズル体制」に少し似ていたのかもしれない。

成功したものほど、終わらせることが難しくなる。
始める時には未来の話をしていたはずなのに、いつのまにか「続けること」そのものが目的になる。

組織というものは、案外、失敗ではなく成功のほうに絡め取られていく。

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