世界禁書図書館~SM・退廃・倒錯文化研究~『Venus in Furs』サッヘル=マゾッホ マゾヒズムの原典を読むepisode.11 「なぜマゾヒズムは誤解されるのか」(SM奇譚 創戯旅団 外伝第63夜)
〜8月22日 02:00
■深夜二時、古い医学書の並ぶ一角
司書は今夜、これまでとは違う棚の前に立っていた。革張りの重厚な背表紙が並ぶ、医学書のコーナーだ。埃をかぶった背表紙には、ラテン語とドイツ語が入り混じったタイトルが並んでいる。
「今夜は、少し重い話をします」と彼女は言った。「マゾヒズムという言葉が、なぜこれほどまでに誤解され続けてきたのか。その責任の一端は、皮肉なことに、この言葉を“発明”した学問――精神医学そのものにあります」
彼女は一冊の分厚い書物を棚から抜き出した。表紙にはこう記されている。『Psychopathia Sexualis』。
「この本から、話を始めましょう」
これまで十夜にわたって、私たちは『Venus in Furs』という文学作品を、様々な角度から掘り下げてきた。作者の生涯、契約の構造、精神的な服従、そして商業化という現代的な現象。今夜は、この連載の中でも、少し性質の異なる回になる。文学そのものの解釈から離れ、この言葉がどのようにして社会に流布し、そしてどのようにして誤解されていったのか、その歴史的な経緯を追っていく。
SM奇譚 創戯旅団 外伝第63夜
世界禁書図書館~SM・退廃・倒錯文化研究~
『Venus in Furs』サッヘル=マゾッホ マゾヒズムの原典を読む
episode.11 「なぜマゾヒズムは誤解されるのか」
※2026年07月23日02時33分【Livedoor、Ameba、FC2初稿】
※2026年07月23日02時33分【note有料投稿】
■第一章:“命名”という行為が持つ暴力性
「言葉には力があります」と司書は静かに切り出した。「ある現象に名前を与えるという行為は、単なる記述ではありません。それは、その現象をどう理解し、どう扱うべきかという“枠組み”を、同時に与える行為でもあります」
この指摘は、言語哲学における古典的な問いとも重なる。名前を与える前と後とでは、対象そのものは何も変わっていないはずなのに、名前が与えられた瞬間から、その対象は「分類された何か」として社会の中に位置づけられる。そしてひとたび分類が定着すれば、その分類の枠組みに沿った理解の仕方が、あたかも唯一の正しい見方であるかのように扱われるようになっていく。1886年、精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは、『性的精神病理』という書物の中で、苦痛や屈辱に性的快楽を見出す傾向に「マゾヒズム」という名を与えた。この命名は、ザッヘル=マゾッホという一人の作家の名前を借りた、いわば“借用”だった。

「この二つの系譜は、同じ言葉を共有しながら、まったく異なる目的のために発展していきました」と司書は言う。「文学的系譜は、人間の内面を掘り下げ、その複雑さを丁寧に描写しようとします。一方、医学的系譜は、分類し、症例として整理し、時には“治療すべき逸脱”として位置づけようとします」
ザッヘル=マゾッホ自身が、この命名を快く思っていなかったことは、以前の夜にも触れた。彼の文学的な探求が、自分の預かり知らぬところで、精神病理の一項目として教科書に記載される。これは、作家としての彼にとって、深い苦渋を伴う出来事だっただろうと司書は推測する。
■第二章:精神医学が果たした光と影の両方の役割
「誤解の責任を、精神医学だけに押し付けるのは公平ではありません」と司書は続けた。「クラフト=エビングの分類作業には、当時としては先進的な側面もありました」
19世紀末のヨーロッパにおいて、性的な逸脱とされる行為の多くは、単純に「罪」や「堕落」として断罪されるのが一般的だった。クラフト=エビングがこれらを医学的な分類の対象としたことは、少なくとも「道徳的な断罪」から「観察と理解の対象」へと、扱いの位相を一段階引き上げる意味を持っていた。

「しかし、この“医学化”は諸刃の剣でした」と司書は言う。「罪から病へと扱いが変わったことで、断罪の言葉は和らいだかもしれません。しかし同時に、“治療されるべき異常”という、また別のスティグマが生まれてしまったのです」

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ここから先は、いよいよ「マゾヒズム」という言葉が、どのようにして現在のイメージへと変質していったのか、その核心部分に入っていきます。
精神医学による「病理化」。
大衆文化による「記号化」。
そして、そこから生まれた「マゾヒスト=変態」という単純なイメージ。
しかし、本当にそれだけなのでしょうか。
「マゾヒズム」という言葉は、文学から生まれ、医学によって分類され、大衆文化によって消費されていきました。
その過程で、一人の作家が描いた複雑な人間心理は、少しずつ切り取られ、単純化され、やがて「性癖」を意味する一つの記号へと変わっていきます。
ここからは、
◆ なぜ「マゾヒズム」は病理として扱われたのか
◆ 精神医学による分類は、本当に誤りだったのか
◆ 「病気」から「変態」へと、どのようにイメージが変化したのか
◆ 大衆文化は、なぜSMを「異常」や「狂気」として描いたのか
◆ ザッヘル=マゾッホ本人の文学は、なぜ「マゾヒズム」という言葉の陰に隠れてしまったのか
◆ 「マゾヒスト」という言葉から、当事者の声が失われていった理由とは何なのか
◆ そして、私たちは「マゾヒズム」という言葉を、これからどのように理解すべきなのか
これらの問いを、一つずつ丁寧に解きほぐしていきます。
この先にあるのは、単なるSM文化の解説ではありません。
「名前を与える」という行為が、人間の欲望をどのように変えてしまうのか。
そして、一度貼られたレッテルを、150年後の私たちはどのように剥がしていくことができるのか。
『Venus in Furs』を読み直すことは、単に一冊の小説を読むことではありません。
その作品から生まれた「マゾヒズム」という言葉が、150年の歴史の中で何を失い、何を残してきたのかを読み直すことでもあるのです。
――ここから先は、世界禁書図書館の地下三階。
「マゾヒズム」という言葉が背負ってきた、もう一つの歴史へ。
司書とともに、その扉を開いてください。
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7月23日 02:00 〜 8月22日 02:00
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