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創戯旅団 生存の記録-SM奇譚 第17夜-見えない帆は、針雨を越える

仕事をするというのは、ときどき、海図の失われた舟に乗ることに似ている。まだ腕には力がある。胸の奥にも、火と呼ぶには頼りないが、それでも確かに熱を帯びたものが残っている。進みたい、という意思だけは消えていない。なのに、どちらへ舳先を向ければ潮に乗れるのか、まるで分からない朝がある。櫂を失くしたわけではないのかもしれない。そもそも自分が握っているものが櫂なのか、折れた板切れなのか、その見分けすらつかないのだ。そういう朝に限って、街を歩く人間たちは皆、どこへ向かうか知っている顔をしている。何をすれば結果になるのか、どの言葉が人を動かすのか、どうすれば今日という一日が明日の土台に変わるのか、最初から承知しているような足取りで、信号を渡り、改札を抜け、店のシャッターを上げてゆく。だが私は、そういう確かさを、あまり信用してこなかった。人は案外、分かっていないまま歩いている。ただ、分からないことを胸のうちで暴れさせずに済ませる術に長けているだけなのだ。知らないことを知らないまま抱えて立つ、その姿勢だけが、あたかも熟練のように見えるのだろう。

私のところへ来る女たちの中にも、ときおり、ひどく大きな言葉を胸に抱えてくる者がいた。女王様になりたい。言葉だけ見れば、それはひとつの志に見える。王冠は誰の頭にも平等には降りてこないが、その重さを夢見ることまでは、誰にも禁じられていない。けれど、その夢はしばしば、鏡の前でだけ完成する。現実の部屋に入り、相手の息づかいを聞き、沈黙の濃淡に身を置いたとたん、彼女たちは自分が何を欲していたのかさえ、うまく言えなくなる。女王になりたい、と言いながら、何をどう差し出すのかを知らない。何を受け止める仕事なのかを分かっていない。そのくせ、響きばかりは堂々としている。そういう人間を、私は嫌というほど見てきた。何をしたらいいのか分からないんです。何も教わっていないんです。誰も教えてくれなかったんです。彼女たちは、たいていそう言う。責任の置き場が最初から自分の外にある言い方だった。私は昔から、技術を細かく教えることをしなかった。意地悪でそうしたのではない。教えることによって、かえって壊れる場面を、何度も見てきたからだ。人は、自分に都合のよい理解をする。技術を渡せば、それを相手のためではなく、自分が楽をするための形に変えてしまう。手順は守っているように見えて、芯だけが抜け落ちる。すると、そこに残るのは、動作の似姿だけだ。中身のない親切。熱のない接触。本人だけが満足している、空疎な儀式。教えたものがそのまま働くなら、世の中はもっと単純だっただろう。だが現実には、たいていのものが少しずつ歪む。水に映る月のように揺れ、ついには誰の顔も映さなくなる。だから私は、ひどく不親切なことを言う。やりたいことではなく、相手が何を望んでいるかを聞きなさい。自分の見せ場を探すのではなく、相手が心地よく沈める流れを見つけなさい。海を割って進めとは言わない。ただ潮目を見ろ、と言う。けれど、それができない者は驚くほどできない。海を見ずに、自分の足元の水たまりを海だと言い張る。やりたくないことを避けるための理屈だけは、梅雨の茸みたいにいくらでも生える。言葉は湿っているのに、心は妙に乾いている。何かを拒むときだけ饒舌で、何かを受け入れるときは急に黙る。そんな不器用さならまだ愛せるが、厄介なのは、その不器用さに無駄な誇りが結びついている場合だった。

一人の思い違いは、一人分の失敗では終わらない。店というのは、思っている以上に閉じた生き物である。水槽の水のように、空気はすぐに濁る。誰かひとりが自分勝手な理屈で動けば、その波紋は廊下を渡り、待機室の椅子に沁み、別の誰かの表情を固くする。はじめは小さな濁りだ。コップの水に墨を一滴落とした程度にしか見えない。だが、その水で皆が喉を潤し、顔を洗い、息をするうちに、気づけば全員の舌の裏に鈍い苦みが残る。数字に出る前に、空気に出る。客足に表れる前に、足音に出る。笑い声が少し金属質になる。鏡台の前に座る背中が、世界に対してほんの少し閉じる。帰り際の挨拶に、言葉にしない棘が混じる。帳簿より早く、私はそうした兆しを嗅ぎ取るようになった。何が店にとってのプラスで、何がマイナスか。昔は分からなかった。分からないまま、勢いで歩いていた時期もある。だが人間は、痛みを繰り返すと、鈍いなりに学ぶ。今では、たった一度の会話、茶の飲み残しの置き方、聞かれたことに答えるまでの微妙な間で、だいたいのことが知れるようになった。人の言葉は思っている以上に軽い。軽いからこそ、その落ち方に癖がある。冗談めかして放ったひと言が、どこを傷つけるか。曖昧な返事が、どんな責任逃れの予兆か。そんなことばかりに、自然と耳が澄むようになった。真面目であることは、ずいぶん損な性質だと思う。派手ではない。近道でもない。むしろ、濡れた薪を抱えて坂を上がるようなものだ。見ている者には要領が悪く映るだろう。もっと軽い荷で登ればいい、もっと器用に振る舞えばいい、もっと時流に合わせて脱げばいい、捨てればいい、媚びればいい。そういう助言はいくらでも飛んでくる。けれど、こちらが立っている山は、石を捨てると足場まで崩れる種類の山だった。何でもありに見える場所ほど、何をしないかを決めることが命綱になる。どこまでやるかではなく、どこで止まるか。その境目だけが、店の寿命を決める。奔放さは一夜の花火にはなれても、冬を越える薪にはならない。私は、それを理屈ではなく、何度も痛い目を見た末に知った。

かつて、ひどく強い女がいた。強い、という言い方は、いささか上品すぎるかもしれない。濃い、と言った方が近い。香水なら部屋に居残り、酒なら喉を焼き、色なら壁紙の裏まで染み込むような濃さだった。彼女は、自分の気に入らない決まりを笑い、慎みを臆病と呼び、節度を時代遅れだと断じた。影でこぼす言葉は耳あたりがよく、甘く、毒のまわりを砂糖で包んだような言い回しをした。若い者の中には、それを自由と見違える者もいた。だが、自由には匂いがある。私はそれが、熟れすぎて底から腐り始めた果実の匂いに似ていると知っていた。甘いが、どこかで鈍く発酵している。長く嗅いでいると、判断が濁る。結局、彼女は去った。去るのは驚くほど早かった。嵐が窓をひとしきり鳴らし、看板を揺らし、植木鉢を倒して、それだけ荒らして去っていくような速さだった。残されたものは散らかっていたが、同時に妙に静かでもあった。そのとき思った。人は店を壊すのではない。壊れ方の手本を周囲に配ってしまうのだ、と。ひとつの傲慢は模倣される。ひとつの怠慢は空気になる。ひとつの諦めは、気づかぬうちに別の誰かの背骨を柔らかくしてしまう。だから、何かを始めるより先に、何かを終わらせることの方が大事な場面がある。情ではなく、構造のために。優しさではなく、生存のために。

マイナス一を外に出すと、世界は不思議なくらい静かになる。何かが増えたわけではない。ただ、失われ続けていたものが止まるのだ。雨漏りする家で、まずやるべきは新しい絨毯を買うことではない。天井の穴を塞ぐことだ。私は、それを遅れて学んだ。誰かを嫌うからではなく、皆が溺れないようにするために、舟底の穴は見逃してはいけない。人を切る判断というのは、いつだって後味が悪い。だが後味の悪さを恐れて穴を塞がなければ、やがて船ごと沈む。優しさは、ときどき、冷たい手をしている。もっとも、ゼロに戻すことと、そこから一を生み出すことのあいだには、細く深い川が流れている。その川には橋がない。地図にも載っていない。こちら側から向こう岸が見えていても、どう渡ればよいのか分からない。改革という言葉は立派だが、実際には、泥の中から錆びた釘を一本ずつ拾い上げるような作業だ。手のひらは切れる。拾い続ければ血がにじむ。痛いからやめようと思えば、それで終わる。だが、拾わなければ誰かが裸足で踏み、また別の血が流れる。そういう種類の仕事が、世の中には確かにある。私自身、身体の一部を失ってから、世界の見え方が少し変わった。足がなくなると、なくなったはずの場所がなお疼く。雨の前には、そこにもう存在しない指先が妙に痒む。身体というのは、失ったものをあっさり忘れてはくれないらしい。私はその感覚を、店の経営に似ていると思った。もう去った人間の言葉が、ときどき不意に胸の奥で軋む。もう終わった季節の空気が、ふいに戻ってくる。潰れたはずの不安が、真夜中だけ息を吹き返す。生きるとは、ある種の幻肢痛と折り合いをつけることなのかもしれない。ないものの痛みを、ないものとして切り捨てず、それでも朝になれば立ち上がること。私は義足で立ちながら、そんなことを何度も考えた。

収支の話になると、人は急に顔つきが現実的になる。夢や理想や矜持といったものが、いっせいに温度を失って、数字だけが机の上に残る。だが私は、数字ほど残酷で、同時に詩的なものもないと思っている。赤字は冬の色をしているし、黒字には小さな焚き火の匂いがある。出ていく金は飼い慣らしたつもりの獣に似て、ある日とつぜん牙を剥く。広告費というものは、まさにそうだった。餌をやれば走る時代もあったのだろう。だが、いつからか、喰わせても喰わせても振り向きもしない、巨大な腹ばかりの獣に変わっていた。ならばどうするか。答えは、乱暴なほど簡単だった。出ていくものを限りなくゼロに近づける。息を潜める。視えない舟になる。私はそれを、密かに「見えない帆」と呼んでいた。帆はある。風も受けている。だが遠目には見えない。無駄に光らず、わざとらしく波を立てず、必要な者にだけその輪郭が届くようにする。雪国の家が窓を小さくするのと同じだ。寒さをしのぐには、まず外に見せる面積を減らさなければならない。第二の始まりは、そのやり方で辛うじて越えた。派手さはなかった。喝采もなかった。たぶん誰にも、こちらがどれほど危うい綱の上を歩いていたかは見えていなかっただろう。それでも、私と、一人の女と、何人かの心ある客たちは、たしかにあの冬を渡ったのである。その一人の女を、私は今でも思い出す。彼女は、目立つための光ではなく、暗い部屋の隅に置かれたランプのような光を持っていた。無理に明るく振る舞うのではない。人が疲れて言葉をなくしかけたとき、そこに小さな温度を残せる人間だった。店は古い船に似ていて、皆が甲板の上ばかりを見るが、実際に船を保たせているのは、見えない場所で一本ずつ打ち直される釘である。彼女は、そういう釘のような人だった。華やかさは、必ずしも大きな火ではない。長く残るのは、たいてい小さな灯だ。しかし、船は一人では進まない。客だけでもだめだ。女だけでも、スタッフだけでもだめだ。同じ揺れを、それぞれ別の場所から引き受ける者がいて、ようやくひとつの夜が成り立つ。真面目な女と、真面目に遊ぶ客。その取り合わせからしか生まれない時間がある。そこには誤魔化しが少ない。邪な関係はよく燃える。だが、燃え方が派手なものほど、灰になるのも早い。真面目さは地味で、火も低い。その代わり、炭になって残る。私は、その炭の熱に何度も救われた。

人はたいてい、主人公になりたがる。舞台の中央に立ち、照明を受け、物語を動かしているのは自分だと思いたがる。けれど長くやっていると、主役の椅子というものがいかに不安定か、嫌でも分かってくる。喝采はすぐ止む。視線はすぐ移る。称賛は次の日の家賃を払ってくれない。だから私は、主人公でなくていいと思うようになった。むしろ、語り部でありたいと思う。舞台の袖で幕をめくり、場面転換のたびに転がった小道具を拾い、次の役者がつまずかないよう床を確かめる者。光の中心には立たなくても、物語が続くために必要な役目はある。私はその役目の方が、よほど性に合っていた。第三の始まりには、隠れるだけでは足りないと感じていた。見えないようにして冬を越すことはできる。だが、生き延びることと、生きていると感じることは、別のことだ。だから今度は、店の中で起きていること、人と人のあいだで生まれては消えていく小さなドラマを、あえて可視化してみようと思った。客の二時間は、その人にとって替えのきかない一篇であり、女の一出勤もまた、その女自身の人生に連なる一章である。店と客のあいだにも、店と女のあいだにも、店とスタッフのあいだにさえ、名づけにくい腐れ縁のような情が棲みつく。ならば、誰かがそれを見つめ、語り、ひとつの流れとして差し出す役目を担わねばならない。それを私がやればいい、と、あるとき思った。防人のようなものだ、とも思う。最前線で旗を振る将ではない。褒賞を与えられる英雄でもない。ただ、境のあたりで小さな火を守り、誰かが帰ってくる道を見失わぬよう見張る者。夜風の中で、潮の匂いと獣の気配を嗅ぎ分ける者。栄誉はない。だが、いないと困る。その程度の役でいい。いや、むしろ、その程度でありたい。私自身が物語の中心になる必要はない。中心は、いつだって、ここへ来る者たちに譲るべきだと思っている。

客も、女も、スタッフも、みなどこか欠けている。欠けているからこそ、ここへ来る。満ち足りた人間だけでできた世界に、物語は生まれない。寂しさがあるから灯りを求める。不安があるから名のない一日に意味を探す。傷があるから、人は他人の手の温度に敏感になる。店とは、欠けた器に安い漆を塗ってごまかす場所ではない。
ひびをひびのまま抱えながら、それでも割れずに持ち続ける方法を、なんとなく覚えていく場所であってほしい。私はそう思う。もちろん、そんな願いだけで日々が回るはずもない。今日も誰かが勘違いをし、誰かが拗ね、誰かが余計な見栄を張り、誰かが自分の傷ばかり撫でる。そのたびに店は小さく軋む。だが、軋みを恐れていては木の家には住めない。人の集まるところがきしむのは、ある意味で自然なことだ。問題は、その音を終わりの前兆と受け取るか、まだ生きている証と受け取るかである。私は近ごろ、前より少しだけ後者に寄っている。痛みがあるということは、まだそこが死んでいないということだ。古い床が鳴るのも、関節が軋むのも、完全に壊れる前の最後の会話かもしれない。だから私は、これから来る人たちに、大きな約束はしない。ただ、ここには物語がある、とだけ言いたい。雨の夜、駅から店へ向かう細い路地にも。エレベーターの曇った鏡に一瞬映る、見慣れない自分の顔にも。待機室で少し冷めた茶の湯気にも。帰り際、何か言い残した気がして一度だけ振り返る背中にも。そのどれにも、名前のついていない一幕が潜んでいる。客であれ、女であれ、裏方であれ、その時間だけは誰にも代われない役がある。私は、それを雑に扱いたくない。

風は相変わらず冷たい。街の雑音もなくならない。だが、見えない帆は、確かに風を受けている。針のような雨が降る夜もある。刺されるたびに、皮膚は薄くなっていく気がする。それでも、雨がやまないなら、やまないなりの歩き方を覚えるしかない。石を投げられたなら、その石で炉を組めばいい。言葉が刃なら、その刃で腐った綱を断ち切ればいい。災いの中にも、使い道はある。そんなふうに思えるようになるまでに、私はずいぶん遠回りをした。遠回りした道には、近道には落ちていないものがある。真面目という名の鈍い石。去っていった者の残した、わずかな苦み。残った者たちの低い笑い声。赤字の底でなお消えなかった、小さな火。痛みを抱えた身体が、それでも翌朝には立ち上がるという、ほとんど奇跡に近い事実。そういうものを、私は拾い集めながらここまで来た。これからも、女王になりたいと言って扉を叩く者はいるだろう。何をしていいか分からないと途方に暮れる者も、きっといなくならない。客の側にも、的外れな理屈で世界を捻じ曲げようとする者は現れるだろう。だが、それでもいいのだと思う。最初から分かっている人間など、たぶん一人もいない。大切なのは、分からないことを盾にして逃げないことだ。無知を冠のように戴かないことだ。海を知らないなら、せめて足首まで水に入ってみることだ。冷たさに震えながらでも、潮の向きというものがあるのだと知ることだ。大きな正解は、たいてい最初から姿を見せない。あるのは、小さな真面目さだけである。床に散らばった釘を一本拾うこと。人の話を最後まで聞くこと。自分に都合のよい解釈を一度脇へ置くこと。無駄な誇りを脱ぎ、まず寒さを知ること。そういう目立たない行いだけが、結局は店の屋台骨になる。

奇跡とは、空から降ってくる金貨ではない。誰にも見向きされない木片を、毎日一本ずつ組み上げていたら、ある日それが橋の形をしていた、という種類の出来事だ。私たちが欲しかったのは、たぶんそういう橋だった。誰かがこちら側から向こう側へ渡るための、あまり立派ではないが、確かに重みを受け止める橋。私はその橋のたもとで、せめて板の浮きを確かめる役でいい。主役ではない。名も残らなくていい。ただ、渡ろうとする人が途中で落ちないように、暗がりの中で手をかざしていられれば、それでいい。夜はまだ長い。幕は上がりきっていない。終演のベルも鳴らない。ならば物語は続く。主人公は、私ではない。ここへ来るすべての人の中に、まだ名づけられていない一幕がある。私はただ、その一幕に灯りが届くよう、風の通り道で、見えない帆を支えている。必要なのは王冠ではない。嵐の夜、折れずに残る一本の帆柱だ。そして帆柱とは、派手な木ではなく、長いあいだ雨と塩と人の手に晒されながら、なお黙って立ち続けた木からしか生まれないのである。


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