創戯旅団 生存の記録-SM奇譚 第5夜-白い夜、終わりの通告
今回のこと、そしてこの次に書こうとしていることは、厚木エレガンスという店が、どのようにして少しずつ姿を変えていったのかを語るうえで、たぶん避けては通れない話になる。
店というものは、外から眺めているぶんには、ある日を境に急に変わったように見える。看板の色が変わる。営業時間が変わる。これまで当たり前のように続いていたものが閉じ、代わりに別の何かが始まる。人はそういう目に見える変化を境目にして、あの日から変わったのだと言う。だが、実際には、変化はもっと前から始まっている。誰の目にも触れないところで、音もなく、しかし執拗に進行している。板の裏に虫が入り込むように、乾いた木の芯から腐りが広がるように、壊れていくものはまず外側ではなく、内側から傷んでいく。
人の身体も、仕事も、たぶん同じなのだと思う。
私が糖尿病を患ったのは、十年前のことだった。
十年という時間が長いのか短いのか、いまだにうまく判断できない。もうそんなに経ったのかと思う日もあれば、つい先日のことのように思える日もある。病気というものは、最初にその名前を告げられた瞬間より、その後の長さのほうで人を削るのかもしれない。ある日突然、まるごと病人になるわけではない。少し悪くなり、少し持ち直し、そのたびに安心し、油断し、また崩れる。その繰り返しのなかで、人は病と一緒に暮らす癖を覚えてしまう。厄介なのは、その「慣れ」が、やがて危機感の輪郭まで摩耗させてしまうことだ。痛みも倦怠も数値も、長く付き合えばどこかで日常に混じってしまう。異常であるはずのものが、いつのまにか生活の背景に退いてしまう。
十年前も、かなり追い込まれていた。けれどあのときは、いま振り返れば自分でも呆れるような、いわばウルトラCの営業でどうにか切り抜けてしまった。綱の細さも高さも分かっていながら、そのうえを平気な顔で歩く真似をしていたのだと思う。あの頃のことも、いずれ書かなければならないのだろう。無理を無理で上塗りし、辻褄を火事場の才覚で合わせるような、あまり感心できない延命のしかただった。だが、商売を続けるとは、案外そういう、体裁の悪い綱渡りの連続なのかもしれない。
とはいえ、今回ばかりは、その手の冗談めいた身振りだけでは済まなかった。
糖尿病が悪くなったり、少し落ち着いたりすること自体は、これまでも何度もあった。こちらが「今度こそ気をつけよう」と思ったところで、身体のほうはべつの理屈で動いている。だが、今年のそれは、明らかに重さが違った。大袈裟ではなく、特大級だったと思う。悪くなるときの身体には、奇妙な静けさがある。派手に崩れるのではない。ただ、日常のすべてが少しずつ濁っていく。立ち上がること、歩くこと、考えること、受け答えをすること、その一つひとつが、水を吸い切った布団を持ち上げるみたいに重くなる。見た目にはまだ大きく壊れていない。そのために、こちらもまだ何とかなるのではないかと思ってしまう。だが、本当に危ないのは、むしろその段階なのだろう。崩壊は、派手な音を立てる前に、まず動作の端々から鈍くなっていく。
しかもそのころ、私は営業方法そのものを見直し、再編しなければならないという覚悟を、すでに一年以上前から抱えていた。店のあり方を変える必要があることは、頭では分かっていた。だが、分かっていることと、実際に変えることのあいだには深い溝がある。商売には惰性があり、生活には未練があり、経営にはいつも「もう少し様子を見てもいいのではないか」という先延ばしの誘惑がつきまとう。そして何より、人は自分がどうにか保ってきたものを、自分の手で終わらせることに、なかなか踏ん切りがつかない。そんなふうに外側の再編が滞っているところへ、今度は内側――つまり私自身の身体のほうが、先に限界を言い渡してきたのだった。内と外とで、同時に地盤が緩みはじめていた。
六月の前半、私は約一週間、ほとんど寝たきりの状態になっていた。
寝たきりと言っても、完全にすべてを止めていたわけではない。そこがまた、自分でもよくないと思うところなのだろう。止まるべきときに止まれず、動けなくなりながら、なお何かを回そうとしてしまう。営業そのものは続けていた。ただし、そのやり方は明らかにいびつだった。女の子たちには事務所の近くまで迎えに来てもらい、帰りもまた近くまで送ってもらっていた。本来ならこちらが整え、支えなければならない段取りを、逆にこちらが支えられていたのである。いま思えば、ずいぶん歪んだ支え合い方だった。常連のお客様のなかには、たぶん不自然さに気づいた方もいただろう。店というものは、表面を取り繕っても、どこかに必ず綻びが出る。声の調子、返答の間、段取りのわずかな遅れ、そういう些細なところに、内部の不調は滲み出る。人間も店も、完全には演じ切れない。
あの時期、助けてもらったことは本当に大きかった。感謝している、という言葉は簡単だが、その簡単な言葉では足りない気もする。こちらが崩れかけているとき、人の親切は、光というより温度に似ている。世界を劇的に照らしてくれるわけではない。ただ、凍え切らずにいられる程度のぬくもりを、黙って手渡してくれる。その温度のおかげで、人は一日だけなら何とか持ちこたえられる。そして一日を越えれば、また次の一日をやり過ごしてしまう。そうやって日々を継ぎ足しているうちに、逆に事態の深刻さを先送りしてしまうこともある。
だが、そういう継ぎ足しで何とかしているうちに、これはもうまずいのではないか、という感覚が身体の奥で濁り始めていた。言葉になる前の異変というのは、たいてい身体のほうが先に知っている。皮膚の下で、見えない水が腐り始めるような、不吉で鈍い感覚だった。熱があるのかないのかも曖昧で、寒いのか暑いのかも判然としない。ただ、自分という容れ物の中身だけが、少しずつ悪いほうへ傾いていることだけは分かる。説明しろと言われてもできないのに、危険だけは確かに分かる。そういう質の悪い察知だった。
通っていた糖尿病のクリニックに電話をしたのは、その頃だった。
相談のつもりだった。症状を伝え、薬のことか、次の診察のことか、何かしらの指示を仰げればいいと思っていた。ところが、電話口の向こうは、こちらよりずっと早く事態を判断したらしい。私が説明を終えるか終えないかのうちに、流れはほとんど一方的に、救急車を呼ぶ方向へ傾いていった。

救急車。
その単語が現実味を帯びて耳に入ってきたとき、私は妙に他人事のような気持ちになった。自分のことのはずなのに、どこか遠くで、中年男がひとり運ばれていく情景を眺めているような気分だった。たぶん人は、本当に厄介なことが起きると、すぐにはその中心に立てないのだろう。ほんの少しだけ斜めの場所に身をずらし、そこでようやく、自分に起きていることを眺める。そうでもしなければ、現実の重さがそのまま胸の上に落ちてきて、呼吸の仕方すら分からなくなるのかもしれない。
それでも時間は待ってくれない。ほどなくして、救急車は本当にやって来た。
あの到着の早さは、いまでも妙に印象に残っている。十分もかかっていなかったと思う。遠くから近づいてくるサイレンの音は、こちらへ助けが来る音であると同時に、事態がもう後戻りのできないところへ入ったことを告げる音でもあった。窓の外の空気が、赤い灯りを受けてわずかに脈打っていた。日常というものは、案外薄い膜でできていて、ひとつの音、ひとつの知らせ、ひとつの決定だけで簡単に裂け目が入る。その裂け目の向こうに、べつの現実が口を開けて待っている。
人生で二度目の救急車だった。
一度目は高校生の頃で、勢いよく跳び箱を飛んで着地に失敗し、頭を強打して脳震盪を起こした。あのときは若かった。怪我ですら、どこか滑稽さのうちに収まっていた。救急車に乗っているうちにはもう気分も良くなっていて、念のためCTを撮り、特に異常もなく帰された。いま思えば、怪我のほうも若かったのだ。回復という言葉が、まだ身体の側に当然のものとして残っていた。
だが今回は違った。若さの失敗ではなく、年月の堆積が、ようやく音を立てたのだった。無理を重ねた身体が、これ以上は引き受けられないと、静かに言い渡してきた結果としての搬送だった。若い頃の怪我が外から来る衝撃なら、今回のそれは、内側で長い時間をかけて醸造されてきた破綻だった。言ってしまえば、私自身が私の中で育ててしまった災厄だったのかもしれない。
担架に乗せられると、視界には天井しか入らなくなった。白い天井。白い蛍光灯。白い壁。白という色は、ときに清潔より先に冷たさを連想させる。とくに病院の白はそうだ。何もかもを等しく照らし、何もかもから個性を剥がしていく。誰が寝かされても同じように見えるように、という配慮なのかもしれないが、その公平さは少し残酷でもある。そこで人は、自分の名前より先に症状になり、生活より先に数値になる。
救急車の内部は思ったより狭く、思ったより整っていた。器具はきちんと収まる場所に収まり、音は最低限に抑えられ、会話も無駄がない。その整然さのなかにいると、人は急に「患者」という単位に変わる。血圧、脈拍、呼吸、意識、搬送時間。ふだん「自分」と呼んでいるものが、少しずつ数字や状態に置き換えられていく。肉体が一個の生活ではなく、一個の案件になる。そういう乾いた感覚があった。こちらの人生は連続しているのに、医療の現場では、まず現在の状態だけが切り出される。その切り出され方に、どこか小さな孤独があった。
伊勢原のI.K.病院までは、ほんの十分ほどだった。
病院に着いてからの記憶は、妙に明るい。廊下も、処置室も、機械の表示も、すべてが白く、青く、必要以上に輪郭を持っていた。消毒液の匂いが喉の奥に薄く貼りつく。遠くでストレッチャーの車輪が鳴り、どこかのカーテンが小さく擦れる。誰かの靴音が一度だけ早くなり、すぐにまた均一な速度へ戻る。病院という場所は、たくさんの切迫を抱えながら、表面だけは静かに保とうとする。そこが、いっそう不穏だった。深い水の底が、表面だけ平らであるように。どこかで急を要する事態が起きているはずなのに、そのすべてが白い光の下で均されている。静かさは、安心より先に、制度の冷たさを思わせた。
最初の処置が始まり、検査や確認が続いた。
その過程で医師から告げられた言葉のひとつが、 「この段階で、ほぼ足は切断になると思っていてください」 というものだった。
その言葉を聞いた瞬間のことを、私はいまでもうまく説明できない。驚かなかったわけではない。だが、驚きという感情は、あまりに大きな現実に対しては、かえって立ち上がれないことがある。切断。足。自分。そういう言葉が頭のなかでいったんばらばらにほどけ、少し遅れてから意味だけが滲んでくる。冬の窓ガラスに息を吹きかけたときのように、最初は白く曇るだけで、向こう側の景色はすぐには見えない。その曇りのなかで、私はまだ、それを自分のこととして引き受け切れていなかった。
足を切るかもしれない、という話は、人の生き方そのものに触れてくる。歩き方だけではない。これまでの働き方、これからの暮らし方、店のこと、移動のこと、金のこと、見た目のこと、そういうものが一気に根元から揺さぶられる。それなのに、その場の私はひどく静かだった。静かであることが、むしろ不気味なくらいだった。感情がないのではない。ただ、感情が現実の大きさに追いついていなかった。心というものは、肉体よりも遅れて事態を理解することがある。
そのあと、尿道にカテーテルを入れられることになった。
そこまで来ると、人間は恐怖と屈辱と疲労のあいだに、妙な可笑しみを見つけてしまうことがある。自分でもどうかしていると思うが、その瞬間、私はつい口にした。
「まさか自分が、尿道カテーテルプレイをやることになるとは思いませんでしたよ」
一拍おいて、先生と看護師さんが笑った。 「プレイじゃないから」 と返されて、私も笑った。
あの笑いは、場を和ませるための笑いだったのか、自分を守るための笑いだったのか、いまでも分からない。ただ、病人という役割の中へ完全に沈み込みたくなかったのだと思う。冗談をひとつ言えば、まだこちら側に戻ってこられる気がした。針や管や数値や説明だけで構成された場所にいても、自分がまだ、自分の口で余計なことを言う人間であると確かめたかったのかもしれない。人は、ぎりぎりの場所で、ときに品のない冗談によってしか自分を保てない。笑いは高尚なものではなく、むしろ最後に残る粗末な防寒具のようなものなのだろう。
その後も、治療、手術、入院に関する説明が続いた。紙を見せられ、同意を求められ、可能性と注意事項が次々に差し出される。説明はきわめて理路整然としていたが、受け取るこちらの頭の中は、少しずつ水を含んだ綿みたいに重くなっていった。人が緊急入院するとき、押し寄せてくるのは病状だけではない。生活の停止、仕事の中断、金の問題、予定の消滅、周囲への連絡、これから先の不確実な時間。そういうものが順番を守らずにやってくる。病気そのものより、その周囲に広がる現実のほうが、時に大きな影を落とす。人は身体だけで生きているわけではないから、身体が倒れた瞬間、生活全体が一斉に傾き始める。
それでも最後、説明を終えた先生に、私は「よろしくお願いします」と言って、グータッチをした。
妙なことをする患者だと思われたかもしれない。だが、そのときの私は、ただ小さく頷くだけの人間にはなりたくなかった。これから自分の身体を預ける相手と、ほんの一瞬でも、数値や役職ではない場所で繋がりたかったのだろう。拳と拳が軽く触れたその感触は、奇妙に生々しく、病院の白さのなかでそこだけわずかに人肌の温度を持っていた。制度の内部であっても、最後に身体を受け渡すのは身体なのだと、そのときふと思った。
病室に移動したときには、もうその日の営業を止めるしかなかった。さすがに、救急車で運ばれ、緊急入院が決まったまま、いつも通りに店を回すことはできない。現実はそこでようやく、言い逃れのできない形をとった。
そして同時に、もうひとつのことも決まった。
ギャルズスタイルの閉店が、自動的に六月末で確定した瞬間だった。
閉店という言葉は、たいてい事後的に整えられる。外から見れば、決断の一言で片づく。だが、その実態はもっと鈍い。迷い、先延ばし、希望、惰性、未練、そういうものが何層にも積み重なった末に、ある出来事が最後のひと押しになる。私の場合、それは経営判断というより、身体の側からの通告だった。もうこのやり方では続けられない。そう言われたのだ。言葉ではなく、症状によって。自分で決めたつもりでいたことの多くが、実はずっと以前から、別のところで決まり始めていたのだと知る瞬間がある。あれは、まさにそういう瞬間だった。
病室の天井を見ながら、私はぼんやりそのことを考えていた。救急車で運ばれ、足の切断を示唆され、カテーテルを入れられ、先生とグータッチをし、その果てに浮かんできたのが店の終わりのことだったというのも、なんとも因果な話ではある。
けれど店というのは、建物ではないのだと思う。看板でも、電話番号でもない。そこにいる誰かの判断や執念や無理によって、どうにか保たれている時間の連なりだ。その「どうにか」が、ついに身体のほうから止められたのだとしたら、それはもう、ひとつの季節が終わったということなのだろう。
六月の外気は、たぶんもう夏の輪郭を帯びはじめていたはずだった。しかし病室のなかには季節がなかった。白い壁、白い天井、消毒液の匂い、空調の風、カーテンのひだ、遠くのナースステーションから断続的に漂ってくる声。ときおり、どこかの機械が短く鳴る。その音は甲高いのに、すぐに吸い込まれて、かえって静けさを強くする。病院の夜は、眠っているのではなく、起きたまま黙っている場所だと思う。沈黙しているのに、どこかがずっと働いている。その気配が、廊下の先の見えないところまで薄く張りつめている。
病室の窓は、外の景色を見せるというより、ただそこに暗さを貼りつけているだけだった。ガラスの向こうには夜があり、こちら側には蛍光灯がある。その境目に、自分の顔だけが薄く映る。疲れた顔だった。だが疲れているというより、何かを急に失いかけている人間の顔だったのかもしれない。
その夜、自分の身体のことと、店のこれからのことと、まだうまく名前のつかない不安とが、ひとつの塊になって胸の底に沈んでいた。沈んでいるのに重さだけははっきりしていて、寝返りを打つたび、その塊が内側でわずかに位置を変える気がした。終わりの始まりだったのか、再編の始まりだったのか、そのときの私にはまだ分からなかった。ただ、元の場所へはもう戻れないのだろう、という感覚だけが、冷たい水のように足元に溜まりはじめていた。
人は大きな変化のただなかにいるとき、それを変化としては認識できないのかもしれない。ただ、何かが静かにずれていることだけを知る。床板がわずかに傾いているような、部屋の空気の比重だけが変わったような、そんな曖昧な感覚だけを抱えて、その夜を過ごす。
病院の夜は長い。眠ったのか、眠れなかったのかも、よく分からない。目を閉じても白さが残り、耳を澄ますと、遠くで誰かの足音がして、また消える。点滴の落ちる速度と、自分の考えごとの速度とが、どこかで噛み合わないまま時間だけが過ぎていく。
その後のことは、また次の夜に書くしかないだろう。救急車に乗せられたあの日が、何かの終わりだったのか、それとも別の形の始まりだったのか。いまなら少しは言葉にできる気もするが、あの夜の私は、まだその名前を知らなかった。
ただ、知らないままでも、不穏さだけはたしかにあった。
それは雷の前の空気に似ていた。
まだ何も落ちてはいないのに、どこかに光だけが溜まっている。
静かで、白くて、逃げ道のない夜だった。
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