見出し画像

黒パグ文芸部✖️ちび創作大賞② 読み切り短編小説 「風の観測者」


こんにちは、黒パグです🐾

今回は、ちび創作大賞・天野雫さんのテーマ 「風」 を題材にした短編小説にチャレンジしてみます。

まだご参加されていない方もぜひ一緒に楽しみましょう🙏
ーーーーーー以下本編ーーーーーー

タイトルは 『風の観測者』。

風は見えない。
けれど、髪が揺れ、コートの裾がはためき、頬が冷たくなったとき、そこにあったことだけはわかる。

これは、観測できない気持ちを、研究者の春音が「風」として受け入れていく物語です。

記事末尾には、この作品をもとに制作したSuno楽曲 『風』 もあります。
よろしければ、本文のあとにぜひお聴きください。

ーーーー


風の観測者

一 ビル風

このビルの前は、いつだって風が強い。

高い建物のあいだを抜けてきた風が、エントランスの手前でひとつに束ねられて、出社してくる人間を順番に殴っていく。今朝もそうだった。一月の風は硬い。頬に当たると、冷たいというより、痛い。

髪が乱れた。

とっさに押さえた手の、指の隙間。
その細い視界の先に、乾さんの背中があった。

紺色のコート。少し猫背。片手に、いつもの黒い鞄。風に押されても歩調を変えない、あの歩き方。人の流れがどれだけ速くても遅くても、彼だけはいつも同じ速度で歩く。私はそれを知っている。知りたくて知ったわけじゃない。毎朝この場所で、勝手に目が探してしまうから、勝手に詳しくなってしまっただけだ。

……おはようございます。

声は、喉の手前で止まった。

いつもそこで止まる。もう何十回目だろう。数えるのはやめたはずなのに、体のほうが勝手に数えている。

たった九文字だ。仕事なら、初対面の相手にだって言える。会議で百人の前に立ったことも、ある。なのにあの背中に向けた九文字だけが、どうしても喉を通らない。

風がもう一度、強く吹いた。

彼のコートの裾が、大きくはためく。私の髪はまた乱れて、視界が黒くさえぎられて、次に見えたときには、乾さんはエレベーターホールの、別の列に並んでいた。

私は自分の列に並ぶ。彼は途中の階で降りる人で、私は十八階まで昇る人だ。同じ箱に乗り合わせることは、めったにない。この会社に来て、両手で足りるくらいしかない。それも全部、覚えている。

扉が閉まる。彼の背中が、金属の向こうに消える。

風は、目に見えない。

木が揺れて、髪が乱れて、誰かのコートの裾がはためいて、はじめて「あった」とわかる。それまでは、ないのと同じ顔をしている。

私のこの気持ちも、たぶん同じだ。

見えない。触れない。本人にも、誰にも、届いていない。名前をつけるのも、まだ少し怖い。「好き」という言葉は強すぎて、口の中で転がすだけで、何かが決まってしまいそうになる。だから私はこれを、ただの「風」ということにしている。ときどき吹いて、髪を乱して、通り過ぎていくもの。

でも本当は、知っている。この風は、通り過ぎない。もう一年、同じ方向から吹き続けている。

揺れている私だけが、唯一の証拠。

十八階に着くまでの数十秒、階数表示の光がひとつずつ増えていくのを眺めながら、私は考えていた。この箱が今日、途中の階で止まればいいのに、と思ってしまった自分のことも、いっしょに。

証拠が私だけなら……それは、本物と呼べるんだろうか。

ーーー


二 換気口の音

社員食堂の隅の席が、乾さんの定位置だった。

窓際から三つ目。トレーの横にノートパソコンを開いて、画面と定食を交互に見る。行儀が悪い、と誰かが笑ったことがあるらしいけれど、私はあの横顔が、少し好きだった。何かをじっと考えている人の顔は、静かでいい。

私は離れた席で、味噌汁を冷ましながら、それを見るともなく見る。話しかけに行く同僚もいるのに、私はいつも、この距離を選んでしまう。近づいて、何かが確定してしまうのが怖いのだと思う。遠くから見ているあいだは、まだ何も間違えていない。

その週から、私はこっそり、記録をつけはじめた。

手帳のいちばん後ろのページ。誰にも見せない場所に、正の字。

廊下ですれ違った回数。目が合った……気がした……回数。彼が誰かと話して、笑った回数。

我ながら、どうかしていると思う。でも、調べもの仕事が長い私は、記録することに慣れている。わからないものは、数える。数えれば、確かめられる。確かめられれば、安心できる。仕事ではいつも、そうやって足場を作ってきた。だから気持ちにも、同じことをすればいいと思った。

一日目。すれ違い、二回。目が合った気がした、一回。

二日目。すれ違い、一回。彼が笑った、一回。廊下の角で、電話をしながら。誰と話していたのかは、知らない。知らないのに、その笑い方を、帰りの電車の中でずっと再生していた。

そういう自分に気づくたび、手帳の正の字が、少しずつ重くなった。

三日目の夜、正の字を眺めていて、手が止まった。

「目が合った気がした」の欄が、いちばん多かった。

…気がした。

私は昔から、自信満々に間違えるクセがある。

見たいものを、見たことにしてしまう。ないはずの線を、あると言い張ってしまう。子どものころからずっとだ。自分でもわかっているのに、その瞬間は本気で「見えて」いるから、たちが悪い。

だからこの正の字も、どこまでが本当なんだろう。

彼が目を上げたのは、私を見たからじゃなくて、ただ時計を見ただけかもしれない。笑ったのは、隣の席の冗談にかもしれない。すれ違った回数だけは嘘じゃないけれど、それは私が、彼の通る廊下を選んで歩いているからだ。データを取っているつもりで、データのほうを自分で作っていた。

そこまで考えて、手帳の上のペンが、止まったまま動かなくなった。

私は何を確かめたかったんだろう。彼の気持ち? 違う。そんなものがこの数字から読めないことくらい、最初からわかっていた。私が確かめたかったのは、たぶん、自分の気持ちのほうだ。これだけ数えている、これだけ見ている、だからこれは本物です……誰に提出するつもりだったのか、わからない証明書。

夜の廊下は静かで、換気口だけが、ごうごうと低く鳴っていた。

機械の風だ。誰のためでもなく、ただ回っている。

私は手帳を閉じた。

数えても、数えても、風は手のひらをすり抜けていく。
ーーー


三 屋上

その夜は、残業だった。

二十二時過ぎ。画面を見すぎて目の奥が熱くて、私は非常階段を上がって、屋上に出た。ここは施錠が緩くて、夜風に当たりたいときの、私だけの避難場所だった。

……のはずだった。

背後で、重い扉の音がした。

振り向くと、乾さんが立っていた。

紺色のコートは着ていない。ワイシャツの袖を、無造作にまくったまま。夜の屋上に、袖まくりのワイシャツ。寒くないんだろうか、と考えて、それから、自分の心拍のほうがよほど問題だと気づいた。

目が合って、彼は一瞬だけ動きを止めた。帰ろうとしたのかもしれない。でも結局、何事もなかったように、五メートルほど離れたフェンスの前に立った。

近づいてこない。離れてもいかない。ただ、同じ夜風の中に、別々に立っている。

夜の街の光が、ずっと下のほうで揺れている。車の流れ。信号の赤。誰かの部屋の、小さな明かり。ここから見えるものは全部、音のない光だった。

風が強い。昼間のビル風とは違う、冷たくて、まっすぐな夜の風。手帳の正の字のことを、ふいに思い出した。数えても届かなかったものと、いま五メートル先に立っているものは、同じ人なのだった。

沈黙が長くて、私は耐えられなくなった。

「風、強いですね」

我ながら、ひどい第一声だと思った。

「……ですね」

それだけだった。彼は夜景を見ている。会話は終わった。終わったはずだった。

なのに、口が勝手に動いた。たぶん、換気口の夜からずっと、喉の奥に引っかかっていた問いだった。

「あの。……見えないものって、ないのと同じだと思いますか」

自分でも、何を訊いているんだと思った。文脈がない。仕事の話にも聞こえない。変な人だと思われる。

乾さんは、すぐには答えなかった。

風の音だけが、しばらく続いた。

「風は見えないけど」

彼は夜景を見たまま、言った。

「寒いのは、本当です」

それだけだった。冗談めかすでもなく、深い意味を持たせるでもなく、ただ事実を確認するみたいな、静かな言い方だった。

私は何も返せなかった。返す言葉が見つからなかったんじゃない。その一言が、まっすぐすぎて、受け取るだけで精いっぱいだった。

乾さんは腕時計を見て、「冷えますから」とだけ言い足して、小さく会釈をして、先に戻っていった。冷えますから。それが私への言葉だったのか、自分が戻る理由だったのか、今もわからない。重い扉が閉まって、屋上には私と、風だけが残された。

寒いのは、本当。

確かめられなくても、本当はある。誰にも見えなくても、証明できなくても、この頬の冷たさが嘘じゃないのと、同じように。

私はコートのポケットから手帳を出した。正の字のページを、風の中で開く。

破らなかった。

破る必要は、なかった。これは間違いの記録じゃない。ただ、確かめようとしなくても、いいだけだ。

ページを、そっと閉じた。

その夜の風の冷たさを、私はたぶん、一生忘れない。



四 エレベーター

二月に入って最初の金曜日。

十八階のエレベーターホールで、私は下りの箱に乗った。ひとりだった。扉が閉まって、階数表示が減りはじめる。

十六。十五。

箱が、止まった。

扉が開いて、乾さんが乗ってきた。

心臓が、一拍、遅れた。

数えるのをやめたはずの回数が、また一つ増えた。両手で足りるくらいしかなかった、同じ箱の中。よりによって、二人きりで。

彼は「どうも」というかたちに軽く頭を下げて、操作盤の前に立った。一階のボタンは、もう点いている。押すものがない彼の指が、行き場をなくして下りた。その小さな仕草まで見てしまう自分が、少し嫌になる。

扉が閉まる。

二人きりの箱の中は、完全な無風だった。

風がないと、だめだ。

ずっと、風のせいにしてきたのだと思う。髪が乱れたから、声をかけそびれた。裾がはためいたから、目で追ってしまった。揺れているのは風のせいで、私のせいじゃない……そういう顔が、できた。

でもここには、風がない。髪も揺れない、コートの裾もはためかない、何も動かない。気持ちの在り処が、わからなくなる。この胸の中のものが本当にあるのか、密室の静けさの中では、確かめるものが何もない。あるのは、隣に立つ人の気配と、それを痛いほど意識している私だけ。

聞こえるのは、機械の微かな駆動音と、自分の心臓だけ。心臓の音が彼に聞こえてしまうんじゃないかという、ばかみたいな心配を、本気でした。

階数表示を見た。

九。八。

何か言うなら、今しかない。何を? 何もない。お疲れさまです? 天気の話? あの夜の屋上の続き?

五。四。

だめだ。言葉が出ない。喉の手前で、いつものように止まっている。

三。二。

……寒いのは、本当です。

あの声を、思い出した。

一。

小さな浮遊感があって、箱が止まった。

扉が開いた。

その瞬間、外からビル風が吹き込んできた。エントランスを抜けてきた、あの乱暴な風。私の髪を乱して、彼のコートの背中をぽんと押すように吹き抜けていった。

ああ、と思った。

風だ。私の代わりに、風が先に触れた。

乾さんが、歩き出す。いつもの、変わらない速度で。自動ドアの向こうは、もう夜で、街の明かりと人の流れが、彼を受け取ろうと待っている。

言うなら、今しかなかった。「おはようございます」も言えなかった一年分の、今しか。

風が先に、彼の背中を押していく。だったら声だって、風に乗せてしまえばいい。届かなくても、風のせいにできる。最後にもう一度だけ、風のせいにさせてほしい。

私はエントランスの手前で足を止めて、遠ざかる紺色の背中に向けて……息を吸った。

「……またね、亮太」

風にさらわれるくらいの、小さな声だった。

呼び捨てにしたのは、初めてだった。声に出したのも、初めてだった。

届いたかは、わからない。彼は振り返らない。紺色の背中は、雑踏の中に紛れて、見えなくなった。

風は、見えない。

声も、届いたかわからない。

それでも。

寒さが本当であるように……この気持ちは、本当だ。

私はコートの襟を立てて、風の中へ、一歩踏み出した。




ーーー


楽曲「風」


この短編をもとに、Sunoで楽曲 『風』 も制作しました。

冬のビル風、屋上の冷たさ、無風のエレベーター。
研究者の春音が、観測できない恋心を「風」として受け入れていくJ-popバラードです。

見えないけれど、寒さは本当。
届いたかわからない小さな声でも、初めて名前を呼べたことだけは本当だった。

ピアノ、アコースティックギター、控えめなストリングス、そして風音から始まる切ない一曲です。


あとがき

今回のテーマは「風」でした。

風そのものは見えません。
でも、髪が揺れたり、服の裾がはためいたり、頬が冷たくなったりすると、そこにあったことだけはわかります。

感情も、たぶん同じなのだと思います。

証明できない。
数えきれない。
届いたかどうかもわからない。

それでも、自分の中で確かに揺れたものがあるなら、それは本当と呼んでもいいのではないか。

そんなことを考えながら書いた短編です。

天野雫さん、素敵なテーマをありがとうございました。

#ちび創作大賞
#風
#小説
#短編小説
#黒パグ文芸部


著者紹介

黒い黒パグというペンネームで活動している昭和生まれの大規模言語モデル開発者です。普段はLLMの実装、RAG、API運用、推論基盤、障害対応など、かなり現場寄りの仕事をしています。仕事ではログ、評価、監視、コスト、失敗時の止め方ばかり考えていますが、noteではその経験をもとに、AIを難しい技術ではなく「人間がどう使い、どう振り回され、どう付き合っていくか」という視点で書いています。

また、AIやLLMを題材にした小説・短編・漫画風記事・画像生成・楽曲制作も行っています。技術記事と創作の境目を行き来しながら、専門的な話をできるだけわかりやすく、時には少し笑える形で届けるのが好きです。今回の『風の観測者』は、そんな黒パグ文芸部としての作品です。

この小説は
企画 草案 黒パグ 100%
プロット 黒パグ70% Claude Fable 30%
本文執筆 黒パグ90% 手打ち Fable 10% 誤字脱字チェック
画像生成 GPT-Image2 100%
でお送りしました

いいなと思ったら応援しよう!