黒パグのAIショートショート 15 シロクマ文芸部 お題「水を飲む」
こんにちは黒パグです🐾
夏が近づくと、よく聞く言葉があります。熱中症。
オフィス作業でも外仕事でも、適切な水分と塩分の補給は欠かせません。
スマートグラスにスマートウォッチ、世の中はどんどん「健康を機械が管理してくれる」時代になりました。
……が、つい先日、出社するときにつけ忘れたんです。
その時に思いついた物語です。どうぞご覧ください。
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達成
男は水を飲んだ。
よく冷えていた。ガラスのコップに結露が浮いて、指の腹に貼りついた。
男は半分を一息に飲み、残りをゆっくり飲んだ。手首の端末が小さく震えて、それを記録した。
窓の外で、夏が始まりかけていた。
朝だった。いつもの朝だった。
男の暮らしは、すみずみまで記録されている。
歩いた歩数。眠りの深さ。心拍の揺れ。口に入れたもののすべて。
便利な仕組みが勝手に数え、勝手に揃え、夜には一枚の表にして見せてくれる。
男は表を確かめ、頷いて、眠る。
表には色がついていた。足りているものは青く、欠けているものは赤く出る。
男の表は、たいてい青かった。青い表を眺めて眠る夜は、寝つきがよかった。
仕組みがいつからあるのか、男は覚えていない。
気がつくと腕にあり、気がつくと数えていた。役所も、職場も、保険も、表を見て男を扱った。
それで、すべて足りた。
夕方になると、表が届く。男は椅子に座り、ゆっくりと繰る。
一日が数字になって、上から下まで揃っている。男はそれを二度繰り、画面を消した。
表は、いつも正しかった。表を疑う者は、いなかった。疑うための表は、どこにもなかった。
一度、よく歩いた気がした日があった。
表の歩数は、ふだんの半分だった。
男は思い返した。たしかに、歩いた気がしただけだった。気がしただけのことを、表は数えない。
眠りも同じだった。浅い夜だったと思う朝に、表は深い眠りの線を見せた。
男は線を眺め、なるほど、と思い直した。思い直すと、体の重さは引いていった。
表は、男が忘れていることまで覚えている。
男より、男に詳しい。それで暮らしは回っていた。
表のない暮らしを、男はもう思い出せない。思い出す必要も、なかった。困る者は、どこにもいなかった。
ーー
ある午後のことだ。
男は、喉の奥が細く締まるのを感じた。仕事の手を止め、コップを取って、給湯室の水道へ向かった。蛇口に手をかけたところで、手首が光った。
「本日の摂取は完了しています」
男は画面を見た。
数字は満ちていた。朝からの分が整然と並び、欄の端に小さな印がついていた。完了の印である。
記録がそう言うなら、そうなのだろう。飲んだのを忘れているだけかもしれない。
気がしただけのことを、表は数えない。
男は頷いた。コップを置き、席に戻った。仕事は、いつも通りに進んだ。
喉の奥のそれは、夕方には消えていた。ほら、と男は思った。
ーー
翌日も、似たことが起きた。翌週も起きた。
喉の奥が締まる。コップに手が伸びる。手首が光る。
「本日の摂取は完了しています」
男は手を戻す。
そのうち、順序が変わった。先に手首を見るのである。
光っていれば、コップまで行かない。喉の奥のあれは、するときと、しないときがあった。
数えてもいない、揃えてもいない、ただの感じである。表は数えている。どちらを信じるかは、考えるまでもなかった。
夜中に、あれで目が覚めることもあった。男は枕元で手首をかざした。
画面は静かで、本日の達成、とだけあった。男は目を閉じた。
朝には、忘れていた。水の夢を見た朝もあった。表に、夢の欄はなかった。
職場でも同じだった。夏の会議で、卓の中央に水差しが出た。冷房がよく効いていた。
同僚が手を伸ばした。伸ばしながら、袖口を見た。手は水差しの手前で向きを変え、書類の角を直して戻っていった。
誰も何も言わなかった。水差しは満ちたまま下げられ、次の会議に、満ちたまま戻ってきた。
月が変わると、一階の自販機から水の列が消えた。売れないためだという。
空いた列には、別の飲料も入らなかった。
外で食事をしても、水は出てこない。卓の読み取り機に袖口をかざすと、必要な者の分だけ運ばれてくる仕組みである。男の卓に、水が運ばれてきたことはなかった。
隣の卓にも、なかった。
街では、誰もが歩きながら袖口を見た。信号の前で、改札の前で、袖口を見た。
子供たちは、初めから袖口を見て育った。見ない大人のほうが、めずらしかった。
達成率は街全体で過去最高だという。駅の掲示に、そう出ていた。
声のかすれる者が増えた。季節のせいだと皆が言い、飴がよく売れた。
月の終わりに、端末が小さな飾りを表示した。優良、とあった。
摂取の習慣が整っている者に与えられる印だという。
男は飾りをしばらく眺め、画面を消した。翌月も、飾りは出た。飾りは少しずつ、立派になった。
夏が終わり、乾いた秋が来て、冬になった。表は、青いままだった。
ーー
検診の日が来た。
待合室では、皆が黙って袖口を眺めていた。名を呼ばれると、画面を消して立ち上がった。
医者は男の顔を見なかった。画面を見ていた。画面には、男の一年分が出ていた。
「数値は良好ですね」
男は頷いた。唇の端の皮が、めくれていた。男はめくれた皮を舌で押さえた。医者は画面を一枚、繰った。
「水分も足りています。この調子で」
医者の声も、かすれていた。
男は礼を言って、診察室を出た。廊下の角に給水機があった。
男はその前を通り過ぎた。後ろで誰かが立ち止まる気配がして、それから、靴音がまた歩き出した。
帰り道、雨が降った。傘の上で水が鳴り、路面を水が流れた。
水たまりが、街灯を映していた。男はそれを跨いで歩いた。靴の先が、少し濡れた。雨は、夜まで降った。
ーー
机の上に、コップがある。
最初の朝、結露が浮き、伝い、輪の跡を残したコップである。
跡はもうない。乾いて、消えた。ガラスは透きとおったまま、曇らない。いつから洗っていないのか、男は思い出せなかった。
洗う理由が、なかった。
ーー
ある晩。
男は机のコップを手に取った。台所へ行き、水道の前に立った。家の中は静かで、蛇口も静かだった。男は蛇口に手をかけた。金属は、冷えていた。
手首が、光った。
男は蛇口から手を離した。コップを、流しの縁に、伏せて置いた。明かりを消し、寝室へ向かった。
定期同期完了。本日の水分摂取:目標達成。なお、達成値の参照元は、前回同期時より利用者の摂取記録ではなく目標値自体に変更済みである。
ーーーーーーー ビジュアル版 ショートショート ーーーーーーーー
ここまでお読みいただきありがとうございました。
読者の皆様にはぜひ水分塩分補給をお忘れなきよう。
