独居老人"長老"の日本文化論 "アラカン"鞍馬天狗、俳優編 嵐寛寿郎
アラカンこと、嵐寛寿郎、、なんといっても,鞍馬天狗が一番有名だが、世代的には、私の中では鞍馬天狗は、東映の東千代之介なのだが、一世代前は、嵐寛寿郎なのである。
しかし、アラカンの鞍馬天狗は、親父に連れていかれた観た記憶がある、小学校の頃だ、越後獅子の子役の美空ひばりの思い出が浮かぶ。46作も作られた、嵐寛寿郎のはまり役となった。最初に作られたのが1927年で、立て続けに3本撮られた。
鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子(1927年)
鞍馬天狗異聞 続角兵衛獅子(1927年)
角兵衛獅子功名帖(1928年)である。監督は、全て、マキノ省三である。芸名は,嵐長三郎であった。まだ、黒頭巾のあのお馴染みの姿でなかつた。あのスタイルが始まったのは、御存知鞍馬天狗 宗十郎頭巾』(1936年、新興キネマ)からである。「黒い宗十郎頭巾に紋付の黒羽織姿」という、このイメージは、嵐寛寿郎自身が創作した姿。原作者の大佛次郎はこれをあまり、快く思っていなかったらしい。
嵐寛寿郎は,元々は,上方歌舞伎役者であつた。東映時代劇がのちに、歌舞伎役者が、転向する先駆けとなつた。
1927年(昭和2年)、封建的な舞台の世界に愛想を尽かし、大阪の青年歌舞伎を脱退した嵐和歌大夫(嵐寛寿郎)は、京都の活動写真制作会社「マキノ・プロダクション」に映画俳優「嵐長三郎」として入社した。ここでマキノ省三監督から「このなかからやりたい役を選べ」と雑誌『少年倶楽部』昭和2年3月号を渡される。長三郎は『角兵衛獅子』を読み、「鞍馬天狗をやりたい」と伝えたことにより、『鞍馬 。天狗余聞・角兵衛獅子』で映画デビューを果たすこととなった。戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇が,主で、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれ。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本も、シリーズ化されているのである。

しかし、自分が一番印象にのこつてるのが、やはり、親父に連れられて観た「明治天皇と日露大戦争」である。新東宝の大作。明治天皇を演じた嵐寛寿郎の風格ある、堂々とした姿が、脳裏に焼きついていた。

映画の中で初めて天皇陛下を演じた俳優だった。小学校の頃で、勿論内容は全く覚えてない。本人もこの役が、相当気に入っていた様だ、シリーズで、何本か撮られた。新東宝は、この映画で、復興したぐらいの大ヒットした。
後の「二百三高地』などの布石となる映画だった。
時代劇の後は,東映の任侠映画によく,出ていた。特に「網走番外地」が有名。
1965年4月18日に第一作目が、劇場公開された。監督は石井輝男。モノクロであった。主演は,もちろん高倉健、嵐寛寿郎は、阿久田寅吉=八人殺しの鬼寅 を演じている。。鬼寅は、ロケ地の網走刑務所でも見物していた本物の囚人たちから「アラカン!頑張れ!」と声援が飛び、アラカンを感激させたほどの気の入った役だったらしい。
これまでの嵐寛寿郎のイメージがガラリと変わった、役柄であった、
しかも、主演の高倉健を食うぐらいの存在感があった。その後,数作、出演している。

これがきっかけで、東映の任侠映画に度々,出演してる、その役は,大概は、古くからある、 悪玉から斬られる組の親分。これがまた,はまり役だった。昭和残侠伝シリーズ、緋牡丹博徒シリーズ、、など。
また、大東亜戦争と国際裁判では(1959年、新東宝) -東條英機役も演じている。
また、寅さんシリーズの『男はつらいよ 寅次郎と殿様(1977年、松竹)にも。

時代劇から現代劇まで、色んな役をこなす、オールラウンドな役者であった。
そして、異色なのが、今村昌平監督の問題作「神々の深き欲望」(1968年、日活) -の太山盛役だろう。この映画で、嵐寛寿郎が撮影の過酷さを暴露。今村昌平が本作とは別に撮っていた映画『東シナ海』のロケで沖縄にいた嵐寛寿郎は「たったの1時間で石垣島までいける、もう1本撮りましょうや」と監督の今村に口説かれて首を縦に振ったところ、1時間のはずが3カ月、半年、1年余りの撮影期間で、暑いムシ風呂での過酷な撮影だったと。そして、「監督
は女優と毎晩、あればかりやりまくっていた』とぼやいていた。しかし、この映画は,キネマ旬報ベスト1など、映画賞を総ナメした。しかし、今村昌平プロダクションは、予讃オーバーし,倒産までしたいわき付きの映画。

『オレンジロード急行』(大森一樹監督)で、第2回日本アカデミー賞優秀男優賞を受賞している。

部類のパチンコ好きでもあった、ボケ防止に始めたらしい、どこかユーモア溢れ、庶民的で、
誰からも愛された、昭和が産んだ大スターであった。
1979年(昭和54年)夏ごろに脳血栓で倒れ京都市西京区の自宅で療養していたが、1980年10月21日に死去した。77歳没。

