「雑草という名前の草はない」
この言葉、確か昭和天皇の言葉だったと記憶していたけれども、なんとなくうろ覚えだったので確かめてみたら、初めは昭和天皇の言葉として広まったが、最近では植物学者の牧野富太郎の言葉ということにもなっているらしいですね。
昭和天皇の言葉であることの信ぴょう性は十分ではないらしいが、植物学者でもあった天皇なら言うかもしれないという、いわゆる伝説扱いということで、フェイクとまでは言えなさそう。
(最近、ジミーヘンドリックスの「地球に対して愛国心を持て」がフェイクらしいとか、そういう話が多いので、引用する際は一旦確かめるクセがついています)
牧野富太郎の言葉としては記録があるということで、よしとしましょう。
このシンプルなのに誰が聞いても名言だと思える一文、とてもフレームワーク論的ですよね。
フレームワーク論に引き寄せると名言の味わいを少し冷ましてしまうかもしれませんが、いわゆるマジレス(クソリプ?)風にいうと、この言葉が(単に)示すのは、私たちが「雑草」と呼ぶものは、植物学的な分類ではないですよ、ということ(だけ)です。
学名というフレームワークも人間が作り出したもの。世界を切り取る方法の一つという点では他の分類と同格です。
庭に生えれば「雑草」、野原に咲けば「野草」、薬効があれば「薬草」。同じ植物でも、どんなフレームワークで見るかによって、その呼び方だけでなく扱いも変わってきます。タンポポは庭では厄介者かもしれませんが、蒲公英茶と呼べば立派な健康食品だったり。
「雑草」と呼ぶこと自体が悪い、みたいに解釈してしまう人はさすがに多くないはずだけれども、たまにそういうナイーブな現象は起きますね。
家庭菜園をしている人にとって、野菜の生育を妨げる植物を「雑草」と呼び、取り除くことは理にかなっています。雑草は雑草でしょう。
フレームワーク論的に考えるとは、「どの枠組みで見ると役に立つのか」と問いかけること。「雑草」というフレームが有用な場面もあれば、「野草」「薬草」「食用植物」といったフレームが適切な場面もあります。
そういういろんなフレームを並べて扱えることを、フレームワーク論を含む「いくつかの私論」では、フレームワーク的思考と呼びます。
結局、牧野富太郎(あるいは昭和天皇)の言葉は、私たちが無意識に用いているフレームワークに気づくきっかけを与えてくれる。ものの見方を柔軟に切り替えることをあの短い一文で教えてくれるので、誰もがハッとさせられ、名言と呼ぶんでしょうね。
