子どもの私が、母の秘密を守っていた頃
母が家を空ける日が増えた
母が家を空ける日が増えた。
最初は、理由なんてよく分からなかった。
「ウォーキングに行ってくるね」
「友達が離婚して大変みたいやから行ってくるね」
「明日のお弁当のおかず買ってくるね」
いままでは全くそんなことなかった。
もともと母は友達が多い人ではなかったし、
趣味だって聞いたことがなかった。
ただ、家の中の空気が少しずつ変わっていくのは分かった。
母がどこかへ行く日。
帰ってくる時間が遅い日。
何かを隠しているような日。
そういうものを、子どもは意外と見ている。
大人が思っているより、子どもは敏感。
はっきり説明されなくても、
言葉にされなくても、
家の中に流れている違和感だけは、ちゃんと感じ取ってしまう。
ある日、母に言われた。
「あんたと同い年の子、おるんやけど会ってみる?」
私はその言葉の意味を、深く考えなかった。
同い年の子。
友達になれるかもしれない子。
引っ越してから、なかなか居場所を見つけられなかった私にとって、その言葉は少しだけ救いのようにも聞こえた。
海の近くのマンション
連れて行かれたのは、海の近くのマンションだった。
そこには、母が言っていた同い年の子がいた。
そして、その子の父親もいた。
その子とは、最初から不思議なくらい仲良くなった。
同じ年で、話しやすくて、初対面なのに気を使いすぎなくていい感じがした。
学校ではどこにもなじめなかった私にとって、すぐに笑い合える相手がいることはうれしかった。
その子不登校で、同じ悩みを持っていたから。
だからその日、私は少し安心していたのかもしれない。
その日は、私もそのマンションに泊まった。
知ってしまった日
母と、その子の父親は、寝室で二人で寝ていた。
その光景を、私は今でも覚えている。
子どもだった私は、それを大人の言葉できちんと説明できたわけではない。
でも、何かを見てはいけなかったような感覚があった。
私とその子はこたつで寝た。
眠れなかった。
眠れるわけがなかった。
ここにいることを、誰かに言ってはいけないのかもしれない。
これは、家で話していいことではないのかもしれない。
そういうことだけは、なぜか分かった。
子どもは、知らなくていいことまで察してしまう。
それから母は、私に隠す必要がないと判断したのか、頻繁にその場所へ行くようになった。
「あの人のところへ行ってくる」
私は、母の秘密を知っている側になった。
そして同時に、その秘密を守る側にもなった。
「お母さんは、女友達のところ」
家では、兄弟や父親に聞かれることがあった。
「お母さんは?」
私は答えた。
「女友達のところ」
何度も、そう言った。
最初は、言わされたわけではなかったのかもしれない。
でも、本当のことを言ってはいけない空気があった。
私が本当のことを言えば、何かが壊れる。
私が黙っていれば、何も起きていないことにできる。
私がうまく嘘をつけば、家の中は今日も普通のふりを続けられる。
そんなふうに思っていた。
私は母のことが大好きだった
今なら分かる。
それは子どもが背負うには、重すぎる役目だった。
私はまだ、守られる側のはずだった。
本当なら、
「大丈夫?」
と聞かれる側だった。
本当なら、
「何も心配しなくていいよ」
と言われる側だった。
でもあの頃の私は、いつの間にか、大人の事情を守る側になっていた。
母の前では、分かっているような顔をした。
兄弟の前では、何も知らないふりをした。
父親の前では、嘘をついた。
どの顔も、私だった。
でも、どの顔も本当の私ではなかった気がする。
本当は嫌だった。
本当は怖かった。
本当は、誰かに全部言ってしまいたかった。
でも、言えなかった。
言ったら、悪い子になる気がした。
言ったら、母を困らせる気がした。
言ったら、家が壊れる気がした。
だから私は黙った。
黙ることが、正解だと思っていた。
恋愛で黙ってしまう理由
大人になってから、恋愛の中で同じような癖が出ることがある。
嫌なことを嫌だと言う前に、相手の機嫌を考えてしまう。
本当は不安なのに、
「これを言ったら面倒だと思われるかもしれない」
「嫌われてしまうかも」
「ひとりになりたくない」
と飲み込んでしまう。
傷ついたときでさえ、
「私がうまく黙っていれば、関係は壊れないかもしれない」
と思ってしまう。
私はずっと、自分の気持ちを後回しにすることが愛情なのだと思っていた。
でもたぶん、違った。
それは愛情というより、子どもの頃に身につけた生き方だった。
波風を立てないこと。
空気を読むこと。
誰かの都合を優先すること。
自分の本音を、できるだけ小さくすること。
そうやっていれば、家の中でなんとか生きていけた。
でも恋愛では、その癖が私を苦しくさせた。
不安になっても言えない。
嫌だと思っても言えない。
寂しくても言えない。
そして限界が来たとき、やっと出てくる言葉は相手を試すような言葉だった。
「別れよう」
「私なんかいらないんでしょ?」
「どうして分かってくれないの?」
本当は、もっと早く言いたかった。
本当は、
「私は今、不安になっている」
「ちゃんと大事にされていると感じたい」
「ひとりにしないでほしい」
と伝えたかった。
でも、そんなふうに素直に言う方法を、私はあまり知らなかった。
子どもの頃から、私は大人の秘密を守る側だった。
でももう、あの頃の私だけに全部を背負わせなくていいと思っている。
あの頃の私に言いたいこと
ただ、あの頃の私に言ってあげたい。
あなたが守らなくてよかった。
あなたが嘘をつかなくてよかった。
あなたが大人の事情を背負わなくてよかった。
あのとき言えなかったことを、今少しずつ言葉にしている。
それは誰かを壊すためじゃなくて、
自分の心を、もう一度ちゃんと自分のものにするためなのだと思う。
