ひとつ目のドアが開いていたら【もしもの始まりを、忘れないうちに】
会えない時間が長くなって、
ふたりでいた頃の記憶ばかりが、ふいに浮かんでくる。
笑い合ったシーンより、静かに隣にいた瞬間ばかりが、どうしてか心に残ってる。
土曜の夜、まだ帰りたくなくて、
私たちは、灯りのついた建物をいくつも巡った。
一番行きたかった場所は、満室の札がぶら下がっていて、
「じゃあ、また今度だね」って、少し笑って、少し残念そうにあなたが言った。
そのとき私は、なにも言えずに、ただ頷いた。
言葉にできなかったけど、あの瞬間のあなたの横顔が、今でも、やけにはっきり思い出せる。
仕方なく選んだ二つ目の建物は、
少し古びていて、でも静かで、私たちの空気にちょうどよかった。
ペットボトルのお茶を手に、ベッドに並んで座って、言葉よりもぬくもりが、そこにあった。
外から聴こえてくる車の音。小さな冷蔵庫の唸り。
あなたの手が、ふと私の手の甲に触れたとき、
私は、なにも言わずに、そのまま指を絡めた。
——でも、もしあのとき、一つ目の建物に入れていたら。
ふたりの夜は、あれとは少し違っていたのかな。
あの場所にだけある景色、初めて見るあなたの表情、知らないまま終わってしまった何かが、あったのかもしれない。
夢の中で、ふとあなたが現れる夜がある。
あの夜の続きのように、そっと手を伸ばしてくるあなたに、私はもう、手を引っ込めたりしない。
ちゃんと、指先まで重ねる。
ちゃんと、あなたの名前を呼ぶ。
言えなかった「好き」も、言いそびれた「ありがとう」も、夢のなかの私は、躊躇いなくあなたに伝える。
夜が明けるまでの、短くてやさしい時間。
ほんとは、現実のどこかに存在していたかもしれない夜。
あの夜、ほんとは選びたかった建物。
あそこで過ごせたら、また違う夜が生まれてたんだろうか。
今さらそんなこと、きっとあなたは気にしてないと思うけれど、
私は時々、あの日あったかもしれない時間を想像してしまう。
でもね、夢の中では、今も手を握ってくれる。
あの日の続きも、その先も、何もかも、まだ終わっていないみたいに。
そして私は目を覚ます。
あなたのいない部屋で、それでも指先に、確かに残るぬくもりを感じながら。
