知らないまま通り過ぎた日々へ【もしもの始まりを、忘れないうちに】
最初の出会いは、東京の雑多な街にある、偶然を仕組まれたような場所だった。
賑やかな店内、入れ替わり立ち替わりの相席、かけ違うテンション。
そんな中で彼は、驚くほど丁寧な口調で、どこか照れくさそうに話しかけてくれた。
相席後に届いたメッセージも、見慣れた軽さとは違っていた。
「突然ごめんなさい。よければ、またお話できませんか?」
くすっと笑ってしまうほど、優しい言葉の選び方だった。
きっとその時から、少し惹かれていたのだと思う。
何度か会って、付き合うようになって、ふとした会話の中で知った。
彼の地元は自然豊かな町で、両親はお土産屋とカレー屋を営んでいるらしい。
その話をするときの彼の顔が、どこか誇らしげだった。
けれど、どんな町なのか具体的に聞くことはなかった。
それを知るには、まだ距離があるような気がして。
出会いが出会いなだけあって、共通の友人もいなかった。
彼の暮らしてきた時間に、私は触れられないままだった。
それでも、目の前の彼と過ごした時間は、ちゃんとあったはずなのに。
でも、いつの間にか、少しずつ噛み合わなくなっていった。
何かが壊れたわけじゃない。ただ、見えない線が引かれたように、連絡が途絶えてしまった。
——もしも、付き合っていた頃、いや、もっと前に。
彼や彼の世界と、もう少しだけ自然につながる何かがあったなら——
たとえば、出会いの場所そのものが違っていたら——
長距離列車と、さらにバスを乗り継いで──ようやく辿り着いたその町は、まるで時間の流れが一段階ゆるやかになったような場所だった。
山に囲まれた川沿いの集落。空気が少し澄んでいて、春の終わりの光が静かに差していた。
バスの本数が少ないため、出発はまだ暗いうち。眠気まじりにぼんやりと景色を眺めていた。
何か特別な目的があるわけじゃない。
それでもこの旅に出たのは、心の奥に少しだけ「知らない場所で呼吸をしてみたかった」気持ちがあったのかもしれない。
終点の停留所で降りると、どこからか、スパイスの香りがほのかに漂っていた。
その匂いに引かれるように路地を進むと、小さな店が見えた。
古い木の扉と、手描きのメニュー看板。
けれどまだ開店前のようで、「準備中」の札がかかっていた。
仕方なく、まずは宿に行って荷物を預け、辺りを散策してみることにした。
静かな町。小さな橋。どこか懐かしい空気。
歩いていると、足湯の設置されたお土産屋を見つけた。
お湯のゆらめきを見つめていたら、店の奥から人の気配がして、「いらっしゃい」と声がかかった。
お土産屋とカフェが併設されているらしい。
「足湯しながらコーヒーでも飲んで、ゆっくりしていってください」と、店主は笑っていた。
それがとても自然で、優しくて、つい「じゃあ、コーヒーをお願いします」と言ってしまった。
靴を脱いで足を浸すと、じんわりとした熱が体の奥に広がっていく。
マグカップから立ちのぼる香りとともに、静かな時間が流れた。
旅の途中で、ふいに見つけた、思っていた以上に心地よい場所だった。
そこへ、自転車のブレーキ音がかすかに聞こえた。
顔を上げると、一台の自転車が店の前に止まり、青年が荷台の箱を下ろして店の奥へと入っていくのが見えた。
数分後、彼が再び姿を現し、タオルを片手にこちらへ近づいてくる。
そして、ほんの少し照れくさそうな声で言った。
「ここ、隣…いいですか?」
私は思わず微笑んで、「どうぞ」と言った。
彼は静かに隣に腰を下ろし、私たちはしばらく、足湯に浸かりながら並んで座っていた。
やがて、自然に言葉が交わされるようになった。
旅のこと、この町のこと、天気の話やコーヒーの味の話。肩の力が抜けたやりとりに、私はふと口にした。
「そういえば…バスを降りたとき、近くですごくいい匂いがして。スパイスの香り。多分、カレー屋さんだと思うんだけど」
彼が「ああ、あのお店ですね」と頷いた。
「もしよかったら、一緒に行きませんか?」
彼は一瞬驚いたような顔をしたが、「いいですよ」と、穏やかに笑った。
歩いて数分。川沿いにある小さな木の扉の店。
開店して間もないらしく、店内にはまだ数人しかいなかった。
カウンターの奥から顔を出した店主が、少し驚いたように青年を見る。
彼もまた、どこか気まずそうに目を逸らした。
ぎこちない空気が流れたのは一瞬で、やがて何事もなかったかのようにカレーが運ばれてきた。
その一皿が、体の芯まで温めてくれるような、やさしい味だった。
店を出ると、夕方の風が少し冷たくなっていた。
カレーの余韻と、ほんの少しの名残惜しさを抱えながら、私たちは並んで歩き出した。
静かな川沿いの道。
さっきより少しだけ距離が近くなった気がした。
でも、そのことをお互い口にするでもなく、ぽつぽつとたわいない話をした。
やがて道がふたつに分かれる角に差しかかった。
「お土産屋はこっちだから」と彼が言って、指さしたのは右手の坂道。私は、反対側のホテルへ戻るつもりだった。
「あ、じゃあ私はこっち」
そう言って立ち止まると、彼も足を止めた。
ほんの数秒、互いに何か言いかけたような沈黙があって。
それを破ったのは、彼だった。
「……また来てよ」
ぽつりと、けれどまっすぐに。
視線はまっすぐ私に向けられていた。
私は一瞬驚いたけれど、すぐに笑って、小さく頷いた。
「うん、また来る」
約束じゃないけれど、確かな何かがそこにあったような気がして。
分かれ道を背に、私はゆっくりと坂を上りはじめた。
振り返らなかったけれど、なぜか彼が見送ってくれているような気がしていた。
——そんな出会いも、きっと、あったかもしれない。
もちろん、それは起きなかった出来事。
でも時々、出会った場所、時期が違えば未来も違ったかもしれないと想像してしまう。
静かな山の町、風に揺れる木々の音。湯気が立つカレーの香り。
もう戻れないけれど、そこにあったかもしれない「もしも」を、私は今もどこかでそっと抱えている。
