バターの香りと、あなたの記憶【もしもの始まりを、忘れないうちに】
バターの香りが、ふと足を止めさせた。
朝の通勤路。足早に歩く人の流れの中、私だけが立ち止まる。
ああ、そうだった。ここに、小さなパン屋があったんだ。
改装されて、店構えは少し変わったけれど、ふわりと漂う焼きたての匂いは、変わらない。
あなたと過ごした朝を、思い出す。
まだ肌寒い春先。少し早起きして、一緒にパンを買いに来た。
クロワッサンと、私は甘めのカフェラテ。あなたは、いつものように水だけを買った。
「コーヒー、飲まないの?」と訊くと、
「嫌いじゃないけど、なくてもいいって感じ」って、照れたように笑った。
そんな何気ないやりとりが、どうして今も、こんなに心に残ってるんだろう。
並んで、クロワッサンをひとつだけ買った。
ベンチで半分こして食べた。サクサクで、少しだけあたたかくて。
ほおばる私の口元を、あなたが見て笑った。
「粉、ついてる」
指先でそっと取ってくれて、その一瞬がくすぐったくて、嬉しかった。
私たちは、たぶん、あのときもう分かっていた。
忙しくなるあなたとの時間が、少しずつ減っていくこと。
一緒にいられる日々が、永遠ではないこと。
でも、言葉にしなければ、続いていける気がして。
そうして、春が過ぎた。
私たちは、別れた。
泣くような別れじゃなかった。誰が悪いわけでもなかった。
ただ、気づいたときには、同じ方向を向いていなかった。
それでも、私は時々、今日のように思い出す。
香り、空気、光。手のぬくもり。声。
パン屋のドアベルが、ちりんと鳴った。
お客さんが出てくる。私は自然と、顔をのぞきこんでしまう。
似ている人を見かけるたびに、あなただったらいいのにって、まだ思ってる。
店に入り、あの日と同じクロワッサンを注文する。
手のひらにおさまるその軽さに、なんだか心がじんとした。
店を出て、近くの公園へ足を向ける。
変わらずそこにあるベンチ。
「ここ、空いてますか?」
声をかけられて顔をあげると、知らない女性が微笑んでいた。
私は「どうぞ」と小さく返す。
彼女はスマホを見ながら、無言で会釈して隣に座った。
ああ、こうやって人は、日々を交差していくんだな。
名前も知らない人と、静かに時間を並べて過ごして、また別れていく。
そして、誰かの記憶に、残ったり、残らなかったりする。
クロワッサンをひと口かじる。
サクッとした音に、あなたの笑い声が重なる。
「また食べよう」
最後に言った言葉。
それが、叶わなかった約束。
でも今、私はまた、あなたとの朝を過ごしている。
“もしも”の中で、やさしく、穏やかに。
風が吹く。春の匂いが混じっていた。
「もう一度だけ話せたら」と思ったけど、たぶん、もう充分だ。
あなたと過ごした日々が、今日も私のなかで、あたたかく焼きあがっている。
それで、きっと、いいんだ。
